平等寺(京都市下京区) | 三日月の館

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所在地  京都市下京区不明門通松原上る因幡堂町728
山号   福聚山
宗派   真言宗智山派
本尊   薬師如来
創建   長保5年(1003)
開基   橘行平

 

因幡薬師の名で親しまれている寺です。

 

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【平等寺(因幡薬師)】

長徳3年(997)、因幡(現在の鳥取県)国司・橘行平が、任を終えて帰京の途中、夢のお告げに従って因幡賀留津の海中から引き揚げ、安置しておいた薬師如来像が、行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保5年(1003)、行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられている。
この霊験談は広く親しまれ、歴代天皇をはじめ一般庶民の深い信仰を受け、承安元年(1171)には高倉天皇により「平等寺」と命名された。
なお、この寺の起こりは、「因幡堂縁起」(東京国立博物館蔵)に詳しく書かれている。
堂舎は度々火災に遭い、寺域も次第に小さくなったが、明治初年(1868)に再建された現本堂には、度重なる火災にもかかわらず伝えられてきた本尊薬師如来立像が安置されている。
この薬師如来立像は藤原時代の一木作りの優品で、重要文化財に指定されている。
嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つに数えられ、ことのほか信仰されている。

京都市

 

平等寺は、烏丸松原を東に入り不明門通を上った所にあります。

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付近の町名は「因幡堂町」。
また、不明門通の名は、平等寺(因幡薬師堂)の門が常に閉ざされていたことに由来。
第80代の高倉天皇が因幡堂のすぐ南「東五条院」に住んでいたため、五条院の御所に遠慮して南門を開けなかったのだそうです。

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平等寺は、因幡国司を務めた橘行平の邸宅に建てられた持物堂に端を発する。
当時は、平安京内に官寺である東寺・西寺以外に寺院を建立することは禁止されていたが、貴族の持仏堂は、建立が認められていた。
また、中世では町堂(集会所)として機能し、革堂、六角堂と並ぶ町堂の代表格であった。
しかし、現在は寺域が狭くなり、ビルの谷間にひっそりと佇んでいました。

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不明門も無くなり、いつでも参拝出来ます。

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入って左手に観音堂。
「まよいいで ここはいなばの ひがしむき こころはにしへ はこびぬるかな」

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奥に大聖歓喜天や地蔵菩薩を祀る堂が建ち並ぶ。

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「空」

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今度は右。
宝物館。
重要文化財を安置。

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130年前の鬼瓦。

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本堂でお参り。

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たまに行われる特別公開の時は800円もとられる。

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しかし、国の重要文化財である薬師如来を見ることが出来ます。
清涼寺(京都)釈迦如来、善光寺(長野)阿弥陀如来と並ぶ、日本三如来の一つ。

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この薬師如来ですが、因幡(現在の鳥取県)から飛来したといわれています。
橘行平は、因幡一の宮の宇倍神社へ参拝するため因幡国へやってきたが、そこで病に倒れてしまった。
(行平が因幡国司としての任を終えて帰京する際という話もある。)
行平の夢の中に薬師如来が現れ、「賀露津に浮かぶ木を引き上げよ」とのお告げがあった。
その後、因幡国賀露津の海の中から光を発しているとの話を聞いた行平が行って引き上げさせたところ、まさしく夢の仏であった。
行平はこの仏像を安置するため薬師堂を建てて京へ戻ったが、仏像は行平の後を追うように都の邸宅に飛来した。
そこで、行平は邸宅に持仏堂を建立した。
寛弘元年(1004)、行平は薬師如来のご利益で因幡国司になることが出来た。
これが因幡薬師平等寺の起源であるという。
また、因幡国で薬師如来が祀られていた薬師寺は、台座と光背が残ったため座光寺と呼ばれるようになった。
これらの話は「因幡堂薬師縁起絵巻」に書かれており、国の重要文化財に指定されている。

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平等寺の周囲をぐるっと廻る。

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烏丸通に面した西の参道入り口。

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烏丸通の反対側は京都銀行本店。
付近の町名は「薬師前町」。

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高辻通に面した北の参道入り口。

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最後に御朱印。

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不思議な話が伝わる平等寺(因幡堂)でした。

 

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