敦賀城(越前国) | 三日月の館

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登城日 2010年 9月 5日(日)晴
難易度 ☆
場所   福井県敦賀市結城町8-6

 

敦賀市公認キャラクター 大谷吉継”よっしー”の居城だったと云う幻の城です。

 

最寄駅はJR北陸本線敦賀駅です。
関西方面から新快速が直通するようになったので、多少便利になりました。

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敦賀城へ行く前には、必ず駅の敦賀市観光案内所で「戦国てくてくマップ」等の資料を貰うこと!
でないと、とても訪城出来ません。
また、アル・プラザ平和堂へ向かう商店街の中に敦賀城の説明コーナーもありました。

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"よっしー"と"つるが城"

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幻の敦賀城。

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敦賀城は残された資料が現存せず、皆目わからないのが現状のようだが、福井藩が慶長年間頃に描いた領内石高図の一部に小さく明記された敦賀城の絵が描かれている。
その絵を写し取った姿から想像すると三重の天守閣を備えた、優美で堅固な城であることがうなずける。
特に、注目すべき点は、今までのような山城を避け、敢えて平城にしたことにある。
吉継の意図は、当時の戦略の常識を破る先進的な考えを持っていたと想像できる。
湊で栄えるこの町に、海からの攻撃防御に対していち早く対処が出来る場所となれば、湊に近い平地となる。
東に庄川、西に閼伽川を外堀とした中州の中に、北は海に面し、南は敦賀特有の湿地の原野が広がる城域には、清水が自噴し飲み水に不足はない。
往古から商港として栄えてきた近くの浦々に睨みをきかせる効果もあったと考えられる。
関ヶ原の合戦に敗れた大谷藩は廃絶となり、その後元和2年(1616)一国一城令により城は取り壊された。
幻の敦賀城と伝えられる由縁である。

 

アル・プラザ平和堂から西へ市役所方面に歩いて行き、三島町の交差点で右折します。
曲がる所は、祠と三島町2丁目自警消防隊ポンプ置場が目印です。
遠くに見えるケンタッキーまで行くと行き過ぎです。

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曲がったところのこの道は、旧丹後街道。

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先へ進んで行くと、三島町2丁目6にお地蔵さんの祠があります。

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お地蔵さんは簾で見えませんでしたが、三ノ丸地蔵と書かれていました。
ということは、この辺りに三ノ丸があったのでしょう。

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おっと、石垣発見!
と思ってしまった。
付近にはそれらしいものは無かったです。

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しかし、さらに北に進み西蓮寺の西側付近に、「敦賀城三ノ丸趾」の碑を発見しました!

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西蓮寺。
浄土宗の寺ですが、特に説明板等は無かったです。

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旧丹後街道をさらに北へ進みます。

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西蓮寺の北側に鎮座する八幡神社。
この辺りは二ノ丸だったのかな?

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八幡神社本殿でお参り。

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この龍の欄間飾りは敦賀城内にあったものと伝わる。

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奥の末社前の燈籠。

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大谷吉継が奉納したものと伝わる。

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本殿脇にある私立敦賀郷土博物館。
中に敦賀城関連の説明があったかも知れませんが、開いてなかったです。

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入口脇に置かれている石は敦賀城表門の礎石と云う。

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付近には堀跡のような水路が廻っていた。
ここから北側が主郭部推定域。

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主郭部南西部分には、敦賀病院が建つ。

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主郭部東側には、旧笙の川が流れている。

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「敦賀城跡・西小学校」の案内板。
あと40m。

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主郭部東側に位置する西小学校。
付近は、結城秀康によって代官が派遣されたことから結城町という地名が残る。
一画に敦賀城案内の石碑が建っている。

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案内板は、光沢のある石かつ曲がっていて写真が撮り難い。

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【敦賀城の跡 敦賀町奉行所・代官所の跡 敦賀県庁の跡】

天正11年(1583)蜂屋頼隆が5万石の敦賀領主となり、旧笙ノ川河口の左岸に敦賀で初めての平城を築いたが、同17年に頼隆が病死すると、領主は豊臣秀吉配下の大谷吉継と交代した。
吉継はこの城を整備拡充するとともに町も整えていった。
三層の天守閣をもつこの城は、現在の結城町と三島町1丁目にまたがるものであった。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で西軍に属した吉継は、敗れて自刃した。
元和元年(1615)の一国一城令によって、城は破却された。

寛永元年(1624)小浜藩主の京極忠高が敦賀郡を加増され、同11年には酒井忠勝が小浜藩主となり敦賀の支配にあたった。
そのため旧敦賀城の中心部に、藩主の宿泊休憩所となるお茶屋(陣屋)、町の支配や警察・裁判を行う南北の町奉行所、農村から年貢を取り立てる南北の代官所を設け、目付け1名、町奉行2名、代官2名が常駐し、配下の足軽や同心とともにその任務にあたった。

明治4年(1871)廃藩置県によって、若狭一国と当時の敦賀・南条・今立三郡を県域とする敦賀県が誕生し、その県庁を旧陣屋に置いた。
同6年に足羽県を統合すると庁舎が手狭となり、庁舎を旧奉行所跡に新築移転した。
同9年8月に敦賀県が廃止されて滋賀県と石川県とに分割されると、敦賀は滋賀県に属した。
同14年に旧敦賀県を管轄地域とする福井県が誕生するが 県庁が敦賀に戻ることはなかった。
その後この地には警察署・裁判所・敦賀病院などがかわるがわる建てられ、結局、明治42年に敦賀尋常高等小学校が神楽町から新築移転して、現在の敦賀西小学校に引き継がれ、今に至っている。

このように近世から近代にかけて敦賀の拠点であったこの地について、わたしたちは結成20周年を記念してここに顕彰いたします。
市民の皆様にあっても、歴史を活かしたまちづくりの礎として役立てて頂けますなら、望外の喜びでございます。

平成9年10月11日
敦賀みなとライオンズクラブ

 

越前国絵図に描かれた敦賀城。

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敦賀城跡に置かれた敦賀役所図。

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明治時代に置かれた敦賀県庁舎。

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西小学校発掘調査時の現地説明会資料。

https://livedoor.blogimg.jp/kanezane2/imgs/9/6/96a3bfe7.jpg

発掘によって、建物の礎石が出てきた。

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西小学校から北へ向かえば、直に港に出る。

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かつては、北前船が行き交い賑わったことでしょう。

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主郭部北東部分。
「敦賀城跡・真願寺」の案内板。

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閼伽川。
敦賀城の外堀跡と云う。

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真願寺。

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山門脇に、敦賀城跡の碑が建つ。

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説明板。

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本堂。

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境内には敦賀城の礎石が残る。

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敦賀城跡の西側を流れる、今の笙の川。

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川を渡ったところにある来迎寺。
敦賀城中門が移築されている。

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客殿には、城の御殿にあったと云われる腰高障子が残されている。

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最後に敦賀城跡から東へ行く。

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気比神宮の北側に位置する永覚寺。
大谷吉継の菩提寺。

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境内には大谷吉継の供養塔が建っている。

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説明板。

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敦賀城は本当に何も残っていませんでした。
その他、遥か西にある常宮神社には、吉継が秀吉の命により奉納したと云われる朝鮮鐘(国宝)があるが、とても行けなかった。
残念です。