場所 鳥取県倉吉市国分寺・国府
伯耆国分寺は倉吉市国分寺にありました。
最寄駅はJR倉吉駅。
駅前バスターミナル2番のりばで日ノ丸バス北谷線に乗って歴史公園前下車。
日に3本しか走っていないようなので、このバスに乗れない時は近くのバス停から歩くしかないです。
(付近を通るバスは何本かあり、そんなに遠くないです。)
伯耆国分寺跡は歴史公園として整備されている。
説明板。
所 在 地 倉吉市国府及び国分寺
指定年月日 昭和49年3月12日
整備年月日 昭和56年3月20日
国分寺は、奈良時代の天平13年(741)、聖武天皇の国分寺建立の詔によって、当時69ヵ国(現在の県のような行政区画)に分かれていた国ごとに建てられた寺院である。
国家の平安を祈るためにつくられた国分寺には、僧寺と尼寺の二つがあり、僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺と呼んだ。
伯耆国分寺跡は、古くから瓦・礎石などによって、その存在を知られていたが、昭和45年からはじまった発掘調査で、より明確となった。
寺域(寺院の範囲)は、東西181.9m(600尺)・南北160m(528尺)あり、周囲には土塁と溝がめぐっている。
本尊仏を安置する金堂や、僧侶が仏法を講じ、法会を行う講堂などの中心建物は、寺域の西寄りにあり、塔は金堂東南の離れた位置にある。
しかし回廊・中門・僧房などの位置や規模についてはまだわかっていない。
なお、伯耆国分尼寺跡(推定)は国分寺の北東約50mのところにある。
そして、記録によると、平安時代の天暦2年(948)に、両寺とも焼失し、その後には、再建されることもなかったようである。
倉吉市教育委員会
案内図。
伯耆国分寺跡を空から。
実は歴史公園前バス停が既に国分寺境内にある。
バス停付近から東を見る。
道路を挟んで東側にも土塁。
歴史公園へ戻って、入り口の「伯耆國分寺舊址」の碑。
まずは寺域の東南隅にある塔跡へ。
塔の基壇。
礎石が復元されている。
七重の塔が建っていたのかな?
塔基壇から境内東側の土塁を見る。
南門跡へ行ってみる。
この辺りは傾斜地。
南門跡付近から塔基壇を見る。
南門跡。
近づいてみる。
南門跡から境外を見る。
南門跡から境内を見る。
ここにも説明板。
内容は上述と同じ。
回廊跡。
金堂跡と講堂跡を見る。
南門跡を振り返る。
回廊跡を東へ。
北へ。
境内東側の柵列を見る。
回廊跡から見た東方建物跡と金堂跡。
東方建物跡を南から見る。
金堂跡。
正面から見る。
金堂跡から南門跡を見る。
金堂跡から東方建物跡を見る。
金堂跡から講堂跡を見る。
講堂跡。
講堂跡から回廊跡を見る。
境内東側にある柵列跡。
境内北側の土塁跡。
西へ行くほど土塁がだんだん高くなる。
土塁の前に墓石のようなものが建ち並ぶ。
西へ行けば行くほど数は多くなり、土塁も高くなる。
四阿が建つ土塁西北隅。
櫓台みたい。
講堂跡を西から見る。
金堂跡を西から見る。
転がっている礎石。
西側の回廊跡。
植栽で表現。
境内の西へ。
この辺りに境内西側の土塁があったらしい。
次に、伯耆国府跡へ向かいました。
(おまけ)
所在地 鳥取県倉吉市国府430
山号 護国山
宗派 曹洞宗
本尊 薬師如来
創建 元禄6年(1693)
現伯耆国分寺は北東約500mの国府集落内に再興された。
最寄のバス停は国府。
矢印に沿って北へ。
西側境内入り口。
南側境内入り口。
現伯耆国分寺は旧境内地に残っていた薬師堂を移築再興したものと云う。
聖観世音菩薩像。
聖観世音菩薩由緒
「明治初年に出雲連華寺…」
読めない。
本堂。
本堂裏に伯耆国分寺古墳。
出土品説明板。
名跡を継ぐ現伯耆国分寺でした。