山科本願寺 その2(山城国) | 三日月の館

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西宗寺から東へ細い路地を進みます。
山科分譲住宅南団地に説明板が建っています。
御本寺の北側土塁と堀があったところです。

 

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【山科寺内町跡】
ここは、戦国時代の中ごろ(1468~1532)、本願寺教団の本山として繁栄した。
自治と自衛の町「山科寺内町」のほぼ中央にあたる。
いま中央公園にみられる小山は、かつての寺内町の平和な生活をまもるために町全体をめぐっていた「土居」の一部である。
昭和48年夏、この団地の建設に先立って発掘調査が行われ敷地の中央から南北方向の土居と濠の跡(合わせて幅32メートル)が検出された。
それは寺内町の内部を区画していた遺構である。
この土居は、すぐ北側で直角に折れて西へ向かい、いま西野の旧集落の中に保存されている土居につづくらしい。
この西南の一郭は、500年前の本願寺の御影堂や阿弥陀堂が建ち並んで「御本寺」とよばれた。
その反対側、公園にある土居との間「内寺内」には、各地の末寺の出張所(他屋)や本願寺の坊官の屋敷が並び、この敷地の北に接する道が寺内町のメインストリートだったと考えられる。
その他、敷地の東北部にはその道に面していたらしい大がかりな建物跡、濠跡の東側には、東西20mにわたって積まれた石垣とそれに平行する柵列跡、さらには砥石や鉄滓(てっさい)を伴出した鍛冶場の石垣炉など、いずれも内寺内域から発掘されたものである。
また生活に欠くことのできない井戸の石組も発見されている。
また、遺構の上には全面にわたって、山科寺内町が焼き打ちにあって亡んだことを示す焦土が堆積しており、それにまみれて出土した甕や小皿やすり鉢の破片は夥しい数量にのぼった。
このように、この付近一帯には、戦国の乱世を生き抜きそして亡んだ山科寺内町の跡が確実に埋もれています。
いま公園の中と新幹線をはさんで南北につづく土居と濠の跡は、そのことを私たちにものがたってくれる貴重な文化遺産なのです。

昭和50年
京都市

 

図を拡大。

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この説明板によると、昭和50年当時は御本寺南西角の土塁はまだ残存していたことが解る。
今度は内寺内を歩きます。
団地に残る井戸跡。

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蛸のすべり台のある公園。

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その向かいが山科中央公園。

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大きな広場のある公園。
内寺内の中心に位置する。

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ここにも説明板があるが、掠れて読めない。

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公園の中に高い土塁が残存。

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西側から見る。

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登ることが出来ます。
登り口には、「山科本願寺土塁跡」の碑が建っています。

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土塁上部の様子。

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土塁の北東角を東から見る。

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土塁の北側に残る堀跡。
自由広場になっています。

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堀跡と土塁。
当時は高い土塁に囲まれ、山科本願寺寺内町は見えなかったことでしょう。

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奇跡的に残った土塁を後にしました。

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公園南側の通り。
かつての寺内町のメインストリート。
桜がきれいでした。

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内寺内を分断する安祥寺川を渡る。
当時は外堀を流れていたのでしょう。
河川改修でここを通っていると思われる。

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安祥川を渡ると外寺内。
蓮如上人の墓所がある。

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墓所入り口。

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土塁で囲まれています。

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墓所。
明応8年(1499)85歳で示寂。
妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻。子は男子13人・女子14人の計27子を儲けた。

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この辺りの地名は、山科区西野大手先町。
大手があったのかな?

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外寺内の外堀の役目をしていた西宮川。

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ここから、山科本願寺寺内町の外となります。
西宮川の対岸には、西本願寺の山科別院(西御坊)があります。

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広い境内。

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櫓のような建物もありました。

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敷地の北側の通り。
石垣の跡かな。

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今度は、東本願寺の山科別院(東御坊長福寺)へ向かいます。
西御坊が東にあって東御坊が西にあり、ややこしい。
こちらも、山科本願寺寺内町の外に位置する。

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大きな本堂。

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蓮如上人の像が建つ。

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櫓のような鐘楼。

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境内にある庭。
覗いてみる。

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何か書かれている碑が建っている。
「…上人…址…」

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「三条通」
何でここに建っているのかな?

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東御坊と西御坊の中間付近にあった蓮如上人立像跡。
蓮如上人の大きな像が建っていたそうですが、昭和19年(1944)戦時中に供出のため無くなってしまった。
ここは外寺内に位置する。

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今度は、山科本願寺南殿跡を目指します。
つづく