恭仁京・山城国分寺跡(京都府木津川市) | 三日月の館

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場所 京都府木津川市加茂町例幣

 

恭仁京・山城国分寺は京都府木津川市加茂町にありました。

 

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【史跡 恭仁京跡(山城国分寺跡)】

恭仁京は、奈良時代に聖武天皇によって造られた都です。
当時、たびたび疫病や戦乱に見舞われ、世情不安の中、こうした事態を打開するためか、聖武天皇は、奈良の平城京を離れ、各地を転々とした後、天平12年(740)に現在の加茂町瓶原の地を中心に新都を定めました。
しかし、恭仁京は天平16年(744)にわずか4年あまりで廃都されてしまいます。
その後、宮域は大極殿を中心に、山城国分寺として再利用されることになります。
山城国分寺跡は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂跡を中心に南北3町(約330m)、東西2町半(約275m)の広大な寺域をもつ寺でした。
山城国分寺跡(恭仁宮跡)には、現在も金堂跡(大極殿跡)基壇と塔跡基壇が地表に残されています。
周囲を塀に囲まれた塔は、残されている基壇跡や礎石跡から考えて七重塔であったと推定されます。

木津川市教育委員会

 

まずは、JR奈良線上狛駅で下車して、京都府立南山城郷土資料館へ向かいました。

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途中、高麗寺址通過。

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説明板。

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礎石が残っていました。

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約20分歩いて南山城郷土資料館到着。
ここで、情報収集。

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駅からこの辺りは恭仁京の右京。

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恭仁京の大極殿跡かつ山城国分寺跡のある左京へは、国道163号線を東へ歩いて行けば近いのですが、道が狭くて危ないので、一旦上狛駅へ戻り、今度は関西本線加茂駅へ。

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静かな商店街を進む。

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恭仁大橋を通って木津川を渡る。

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渡ると恭仁京の左京が見えてきます。

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橋を渡ると恭仁京までの案内板があるので、それに沿って歩くといいです。

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橋から10分もかからずに恭仁京・山城国分寺跡に到着。

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散策マップ。

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朱雀大路を進む。

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まずは、木津川市文化財整備保護センター恭仁分室へ向かいましょう!
外観を見るとどこかの集会所のようで頼りない感じがするが、中で放映されている恭仁京紹介ビデオは必見です。

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恭仁京左京想像図。

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大極殿院地区想像図。

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大極殿跡・山城国分寺跡へ向かう。
例幣使料碑。
例幣使とは、江戸時代に朝廷が伊勢神宮や日興東照宮へ派遣した使いで、この碑はその費用を賄うための料地の境を示すもの。
また、この辺りが山城国分寺の東境。

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大極殿院跡に建つ恭仁小学校。
明治6年開校。

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この小学校の裏に大極殿が建っていたと云う。

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大極殿跡へ向かう。

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大極殿基壇。

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基壇に建つ「恭仁京大極殿址」の碑。

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ここには奈良の平城京から移築された大極殿が建っていた。

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【恭仁京大極殿と山城国分寺跡】

この場所は、天平12年(740)12月15日に、聖武天皇が「恭仁宮に幸す」と宣言して、平城京(奈良市)から遷都してきたところで、恭仁宮と呼ばれました。
聖武天皇が恭仁宮に遷都された理由は明らかではありませんが、北に急峻な山地をいただき、南に平野がひらけてその中央を泉川(木津川)がゆったりと流れる瓶原の環境も無視できない重要な要素でした。
「万葉集」には、新しき都を讃める歌が収録されています。

三香の原 布当の野辺を 清みこそ 大宮ところ 定めけらしも(1051)

咲く花の 色は変らず ももしきの 大宮人ぞ たち変りける(1061)

このように新京を詠んだ歌には、季節によって移ろう景観の美しさや「泉川」と呼ばれた木津川の清流に心ひかれたものが多いようです。
恭仁京の中心には、天皇の住まいや国の行政官庁が入っていた恭仁宮が設けられ、宮の中央に国政をつかさどる建物が配されました。
そこには平城宮から移築された大極殿がそびえ、天平の甍が輝いていたのです。
現在、恭仁小学校の裏にある土壇が恭仁宮大極殿の跡で、昭和51年(1976)京都府教育委員会によって発掘調査が実施されました。
恭仁宮はわずか3年余りの短命な都でしたが、この大極殿をはじめ、恭仁宮の中心部はのちに山城国分寺として再利用されました。
大極殿(国分寺金堂)跡の東側は、国分寺の鎮守社として祀られていた御霊神社の境内地だったところで、永年地域の氏神として信仰を集めていた杜には楠や椿が繁茂して、大極殿跡とともに歴史的な景観を保っています。
恭仁宮跡の発掘調査は、昭和49年(1974)より京都府教育委員会によって行われ、平成8年(1996)には宮域が確定しました。

木津川市教育委員会

 

わずか3年余りで廃された恭仁京は、山城国分寺として生まれ変わった。

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伽藍配置図。

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大極殿は金堂となりました。

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大極殿(金堂)跡に残る礎石。

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「山城国分寺址 舊恭仁宮址」の碑。

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その裏に建つ「史跡 山城国分寺跡」の碑。

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隣りの「恭仁宮大極殿阯」の碑は倒されていた。

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大極殿(金堂)基壇を北東から見る。

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基壇の北東には、国分寺の鎮守社であった御霊神社があった。
現在、御霊神社は恭仁神社に合祀されている。
その後、境内地は椿の大木の森となっている。

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山城国分寺境内の南東には七重塔が建っていた。

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基壇が残る。

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基壇上部には礎石が残り、「史跡 山城国分寺跡」の碑が建っています。

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往時の七重塔。

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七重塔前から見た想像図。

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もう一度基壇と礎石。

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山城国分寺跡から出土した軒瓦。

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大極殿(金堂)基壇の北へ。

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天皇が日常生活を送った内裏地区。
この辺りが山城国分寺の北限。

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説明板。

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内裏地区から大極殿(金堂)基壇を見る。

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内裏地区の北側を流れる大井手用水。
鎌倉時代に造られたという灌漑用水路。
この辺りが恭仁宮の北限。

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最後に、恭仁宮の西に鎮座する恭仁神社へ。

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参道。

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由緒。
山城国分寺の鎮守社だった御霊神社が合祀されている。

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境内の様子。

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史跡が重なる恭仁京・山城国分寺跡でした。

 

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