188 原城 その1(肥前国) | 三日月の館

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登城日  1回目 2007年 8月 9日(木)晴
       2回目 2010年 8月 5日(木)雨のち晴
難易度 ☆☆
場所   長崎県南島原市南有馬町乙

 

島原の乱の舞台です。

 

3年前は島原駅から島鉄に乗って行きました。

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しかし平成20年4月1日に島原外港⇔加津佐間が廃止になってしまいました。
よって、島原駅から加津佐海水浴場前行きバスに乗って行きました。
1時間に1本くらい走っています。
浦田観音バス停下車。
まずは、縄張図。
今は左下にいます。

国道251号線から集落へ入って行くと、浅間神社があります。

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説明板。

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参道。

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脇に甬道。
原城攻撃の為に幕府軍が造った穴。

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籠城側の農民は、生葉をいぶし、糞を注いで撃退したと云う。

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浅間神社。

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階段に注意!
帰りの石段で思いっきり尻餅をつきました。
さらに東へ進み、原城温泉真砂を右折。
ここが大手門跡です。

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説明板。

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大手門跡から入城。
振り返る。

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この辺りは三の丸。
真直ぐ行くと二の丸。
右へ曲ると原城入口バス停。

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寄り道して右へ行ってみる。
原城跡の看板。
がついて来た。
コワ~イ!

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三の丸の石垣が残る。

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近づいてみる。
が見張り。
困るなぁ~

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立派な石垣。
門でもあったのですかね。

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石垣の裏に板倉重昌の碑がある。

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説明板。

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【板倉内膳正重昌の碑】
延宝9年(1681)造
寛政9年(1797)11月建立

将軍家光の命に依り、征討軍の統師として寛永14年12月9日着陣、12月10日、20日総攻撃したが、農民・信者の勢いが予想以上に強く久屯の計を採った。
然るに江戸では、12月27日老中松平信綱を統師に任じた事を12月29日兄重宗の書によって知った。
重昌寄手が退いたのを大いに怒り、槍を採って先頭に進み城に迫ったがついい胸部に銃弾を受け壮烈な
戦死を遂げた。
齢51歳。
乱後350年の今、板倉温故会のご努力とご厚意により、板倉家縁りの地、三河の銘石に刻し墓碑いかかわる事実を後世に伝えるためこの碑を建立する。

重昌辞世の歌

あらたまのとしにまかせて さくはなの なのみのこらば さきかけとしれ

昭和62年 南有馬町教育委員会

 

今度は が見張り。

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戻って二の丸へ進む。
二の丸から田尻門方向を見る。
有明湾が見えた。

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二の丸はひまわりがいっぱい!

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二の丸はかなり広い。

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振り返る。
この二の丸の広さから、島原城に匹敵するくらい(またはそれ以上の)大きな城だったことが解る。

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二の丸から本丸を見る。

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二の丸から土橋を渡って本丸へ進む。

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両側は深い空濠で守られていた。

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説明板。

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振り返る。

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本丸へ進む。

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ホネカミ地蔵。

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説明板。
ホネカミ=骨をかみしめる=自分自身のものにする=人々を救済する
という意味。

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本丸虎口の石垣。

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複雑で大きな虎口。
南へ直角に曲がる。

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虎口入口を振り返る。

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また東へ直角に曲がる。
『コ』の字形の逆に曲がったことになる。

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本丸櫓台石垣が見えた。

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東へ進む。

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まもなく本丸に到達。

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本丸西側の石垣。

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本丸虎口。(前回のもの)
大きな門があったのかな。

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本丸から見る。

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説明板。

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ようやく本丸。

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原城は、日野江城を居城とする有馬氏の支城だったと云う。
これだけの虎口はなかなか見当たらない。
支城とは信じがたい大きさだった。
つづく