魚津城(越中国) | 三日月の館

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登城日 2012年 5月26日(土)晴
難易度 ☆
場所   富山県魚津市本町1丁目10番地39号

 

上杉氏と織田氏が壮絶な攻防を繰り広げた松倉城の支城です。

 

最寄駅は現在富山県唯一の高架駅である電鉄魚津駅。

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新宿商店街を西へ。

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そのまま進んで新宿交差点を左折すれば魚津城なのですが、商店街が参道のようだったので途中で左折して伏見稲荷魚津大社へ。
魚津城主で上杉方の武将であった河田長親が建立し、魚津城の戦いでは上杉方の武将がここで自決したと云う。

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大町小学校へ。

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この地に魚津城があった。
東側の校門前の説明板。

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学校の南側に城址碑がある。

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城址碑。

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近づいてみる。

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城址碑前の石は魚津城の石垣の石という。

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隣りには説明板。

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【史跡 魚津城跡】

松倉城の麓を流れる角川の河口付近に位置し、旧北陸道に面した交通の要衝に築かれた平城です。
築城年代は定かではありませんが、室町時代には松倉城の重要な支城(出城)として機能していました。
天正10年(1582)、越後(新潟県)を本拠地とする上杉方にとって、越中(富山県)における重要な拠点であった魚津城は、西方より勢力を拡大してきた織田方の柴田勝家、佐々成政、前田利家らの攻撃を受け、「本能寺の変」の翌日である6月3日に落城しました。
その後、魚津城は、佐々氏、次いで前田氏の支配下となりましたが、江戸時代の初めに廃城となり、加賀藩の米蔵や武器庫として利用されました。
城の周囲には奉行所や寺院が置かれたことから、新川郡の政治的・軍事的中心として栄えました。
江戸時代中頃の「魚津町惣絵図」には、城の本丸とそれを囲む二の丸や堀が描かれており、近年まで堀の一部が残っていました。
本丸部分は現在、大町小学校となっています。

平成22年9月
魚津市教育委員会

 

魚津町惣絵図。
https://livedoor.blogimg.jp/kanezane2/imgs/8/0/80c17568.jpg
現在の地図と比較。 
天正10年、魚津城の戦い当時の上杉軍・織田軍の合戦図。
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戦いの軌跡。
https://livedoor.blogimg.jp/kanezane2/imgs/d/d/dd38fc55.jpg
魚津城の戦いを絵図で。
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①魚津城の築城
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魚津城の築城は、室町時代の初期と考えられています。
越中国(現在の富山県)新川郡を治めていた椎名氏は、松倉城に居城していましたが、この地が北陸道を往来するのに必ず通らなければならず、また、海と松倉山とを結ぶ重要な要地であることから、この地に松倉城の支城のひとつとして魚津城を築きました。
②魚津城の戦い
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戦国時代末期には越後国の上杉氏の越中支配の拠点となっていましたが、天正10年(1582)、天下統一を目論む織田軍に包囲されます。
上杉景勝は天神山城に出陣し、魚津城を救おうとしましたが、春日山城が奇襲されるとの急報があり、越後国へ帰国しました。
城を守る13武将は果敢に戦いましたが、魚津城は落城しました。
本能寺の変(6月2日)の一日後のことでした。
③魚津城代・安定の世
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関が原の戦いの後、越中国は加賀前田家の所領となりました。
魚津城は青山佐渡守が城代となり城下町作りを行い、武家屋敷、寺院、角川町・大町・真成寺町などの町人町ができ、多くの人々が移り住みました。
魚津町は、越中国の政治・文化の中心として栄えました。
④藩政時代から明治時代へ
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明治維新の後、廃藩置県(1871年)により金沢藩も金沢県となり、新川県、石川県と変わった後、明治16年に現在の富山県が設置されました。
魚津城址には、尋常小学校、裁判所、工業試験場などが置かれました。
明理小学校は現在の大町小学校です。
卒業生には、テレビジョンの父故川原政太郎博士(NHK連続テレビ小説「凛々と」の主人公)などがおられます。)
⑤あとがき
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魚津城は、一国一城令(1615)により城郭が、また明治時代の廃藩置県により堀と石垣が破却されてしまい、現在その姿を残すものはほとんどありません。
魚津城址碑の下にある石積みや「たてもん祭り」で有名な魚津諏訪神社境内の玉垣が魚津城の石垣であると言われています。
また、小学校正門横の「ときわの松」は、上杉謙信公お手植えの松と伝えられています。

 

ときわ松へ行ってみる。

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西側の校門の脇にときわ松。

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【上杉謙信の歌碑】

天正の初年(1573)上杉謙信が越後の精兵を引きつれて越中へ進入し魚津城外にたむろした時の歌であり、時は初秋、過雁一声鎧のまま野伏した謙信が思わず旅愁をそそられてこの一句を口ずさんだものと思われる句詩

武士のよろいの袖をかたしきて
 枕に近きはつかりの声

 

棟方志功画伯の「ときわ松」。

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現在との比較図を見ると、この辺りが大手門。
大手門は西向きだった。

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校庭が本丸。

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一周してみる。
校庭の北西隅にある山は本丸土塁の位置と重なる。

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山の前の道は内堀跡。

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本丸北側へ。
この道の位置も内堀跡。

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この辺りで内堀は直角に南へ。

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本丸北側を振り返る。
手前の水路が堀跡と重なる。

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内堀は校舎とぶつかる。

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校舎を突き抜け、この辺りでまた直角に西へ。

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現在との比較図を見ると、小学校と裁判所の間の城址碑や説明板のある辺りの南側が内堀跡。
小学校の方が、裁判所より少し高台になっている。

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今度は二の丸を一周。

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北へ。
校庭との間に内堀と二の丸があった。

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この家はどうやって2階へ出入りするのだろう?

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二の丸北西隅付近。
この辺りの旧町名は出丸町。
二の丸虎口があった。

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現在との比較図を見ると、照願寺の南側に外堀があった。

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この延長線上の住宅地の中に、周囲より高台に建つ家があった。
ちょうど二の丸土塁の位置と重なる。

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脇の水路は外堀跡かな。

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照願寺は、天正末年に魚津に入り、魚津城城下町の縄張りを行い魚津を呉東の政治・経済・文化の中心とする基礎を作った青山佐渡守の菩提寺。

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二の丸東側。
右側の家も周囲より高い。
舗装されている辺りは堀跡かな。

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学校の東側はお屋敷っぽい。

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裁判所前の水路は、南側の外堀の名残かな。

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二の丸南西隅付近。

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また、電鉄魚津駅へ戻る。

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時が止まったかのような駅。

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いつの時代やねん。

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傾いてる…

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懐かしいレッドアロー号に乗って帰りました。

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有名な割には、意外に小さな城でした。