八坂の塔(京都市東山区) | 三日月の館

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所在地  京都市東山区清水八坂上町388
山号   霊応山
宗派   臨済宗建仁寺派
本尊   薬師如来
創建   伝・崇峻天皇5年(592)
開基   伝・聖徳太子

 

正式には法観寺といいます。
創建当時は、四天王寺式の大伽藍を構える壮大な境内を持つ寺院だったそうですが、今は五重の塔他2堂を残すのみです。

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【八坂の塔の概要】

霊応山法観寺と号し、臨済宗建仁寺派に属し、通称「八坂の塔」と呼ばれる。
高さ46m・純和様建築・本瓦葺五重の塔(重要文化財)と薬師堂・太子堂(市指定文化財)が現存する。
殊に五重の塔は、東山一帯のシンボルとされている。
本尊として金剛界の五仏を安置する。
寺伝によれば、聖徳太子が如意輪観音の夢告により五重の塔を建て、仏舎利三粒を納め法観寺と号したという(589年)。
またこの創建には古くから八坂郷を拠点としていた渡来系豪族狛人・八坂造がかかわるものと推測される(678年)。
天暦2年(948)塔身が西に傾き、霊居寺僧・浄蔵貴所が加持してこれを復したという。
また治承3年(1179)清水寺宗徒と祇園神人の争いにより類焼したが、建久2年(1191)源頼朝により再建された。
その後、寺勢は振るわなかったが仁治元年(1240)建仁寺8世・済翁証救が入寺し禅刹に改める。
正応4年(1291)落雷により焼亡したが、延慶2年(1309)後宇多院の援助を受けて北条貞時・山内円成尼が復興した。
暦応元年(1338)以来、足利尊氏・直義兄弟は夢窓国師の勧めにより、全国に安国寺・利生塔を建てたが、山城国利生塔には当寺五重の塔をあて、仏舎利を奉納した。
あわせて播磨国印南庄の地頭職を寄進して当寺塔婆復興のための供養所とし、この間の事情を南禅寺渡来僧・清拙正澄(大鑑禅師)に『法観禅寺仏舎利塔記』として記させている。
康永元年(1342)住持・高山栄元の尽力で補修され、夢窓国師を大導師に迎え盛大な供養が執り行われた。
しかし、永享8年(1436)炎上、同12年、室町幕府6代将軍・足利義教公により再建され今日に至っている。
(パンフレットより)

 

坂の途中にあるので、遠くからは良く見えるのですが、近くに来るとただ見上げるだけ。

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角度を変えても見上げるだけ。

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「日本最初之寶塔」
「聖徳太子御建立」
と書いてある。

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脇には石碑「史跡法観寺境内」が建つ。

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説明板。

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中に入れる日があるとは…
入ってみる。

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しかも五重の塔に登れるという。
素晴らしい!

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入り口。
本当にいいのかなぁ?

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中心礎石。
創建当時のもので、円形舎利孔、石蓋孔、凹柱座のある三段式で、白鳳の様式を留め、日本での舎利信仰の原点とされている。
殊にこの心礎には全国で僅か2例という古い石蓋を今日も存している。

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説明板。

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中心には柱を背にして仏様が4体座っておられました。

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壁にも絵が書いてありました。

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階段を登る。
松本城並みの急な階段。

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心柱。

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塔から京の街を見下ろす。

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心柱を見下ろす。

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帰りはさらに怖かった。
貴重な文化財を傷つけないように神経を使いました。

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五重の塔の脇に建つ太子堂と薬師堂を見る。
江戸初期、門前の住人の寄進により再建。

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太子堂。
太子堂には聖徳太子30才像、同16才像を安置する。

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薬師堂。
薬師堂には本尊薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将並びに夢見地蔵尊を安置する。

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さて、五重の塔のさらに奥に八坂稲荷尊天が鎮座する。

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その横に、何と木曾義仲の首塚があった。
脇には八坂の墓がある。

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説明板。

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木曾義仲の墓は、滋賀県大津市の義仲寺境内にあるのは以前ご紹介しましたが、首塚がこんなところにあるとは知りませんでした。

 

(おまけ)

 

夜はライトアップされます。

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携帯カメラなので夜景は今一つ。

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八坂の塔は遠くから見る方がいいです。

 

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