登城日 2013年12月29日(日)晴
難易度 ☆
場所 静岡市清水区吉川
後に毛利氏一族となった吉川氏の故地です。
新静岡駅から静鉄に乗り狐ヶ崎駅下車。
まずは、駅の北側にある吉川八幡神社へ向かう。
駅名の狐ヶ崎は、鎌倉御家人の吉香友兼が梶原景時の三男景茂を討ち取った所と云う。
狐ヶ崎は駿河区曲金の説もある。
討ち取った際に使われたと云う刀は「狐ヶ崎」と名付けられ、吉川氏の家宝として代々受け継がれ、現在は山口県岩国市の吉川史料館に保管。
国宝に指定されている。
駅前通りを進む。
駅の南側に道は旧東海道。
説明板。
旧東海道を渡る。
渡った所に上原堤「宗旦池」。
説明板。
宗旦池の南側に狐ヶ崎ヤングランドという遊園地があった。
CMソングは北原白秋が作詞した「ちゃっきり節」。
東へ進むと久能寺観音道と交わる。
説明板。
ここから北上。
静鉄と東海道本線に架かる谷津沢川水路橋を渡る。
歩道の下に川が流れている珍しい橋。
説明板。
初代谷津沢川水路橋。
谷津沢川水路橋から吉川八幡神社を見る。
東海道本線敷設の為、境内の2/3を失っている。
吉川八幡神社の境内。
由緒書。
吉川氏館の北西に祀ってあったものを現在地に遷したものと云う。
参勤交代の際、岩国藩主吉川氏は必ず参詣していた。
鳥居。
脇の上屋。
上屋に横たわっている旧鳥居。
寛政元年(1789)周防国岩国藩主吉川経倫が奉納したもの。
柱には吉川氏と梶原氏との戦いや承久の乱の功績、村民への感謝、神のご加護への熱い思いが彫られている。
説明板。
社殿へ。
拝殿へ。
拝殿。
拝殿内に注目!
東京馬込萬福寺所蔵、駿河国吉川村絵図。
説明文。
安養寺の南にある瀧五左ヱ門の屋敷が吉川氏館っぽい。
福寿院は、静岡県警清水分庁舎の西にある福聚院のことではないだろうか?
吉川村絵図。
吉川八幡神社の北、新幹線の高架の南に土塁っぽいものが見える。
ここが吉川氏館っぽい。
通説では、吉川氏館は小糸製作所静岡工場の北にあったと云う。
吉川八幡神社の故地には古宮が残る。
吉川氏館へ向かう。
吉川八幡神社から北へ進む。
瀧五左ヱ門の屋敷はこの辺りかな?
この水路は堀跡かな?
個人的にはこの辺りに吉川氏館があったと思います。
吉川八幡神社にあった吉川氏館へ向かう。
国道1号線の北側に位置する小糸製作所静岡工場。
この辺りの地名は吉川。
小糸製作所の西辺を進むと吉川氏墳墓があります。
吉川氏墳墓。
説明板。
石碑。
清水市吉川を中心とする一帯の地方は旧岩国藩主吉川氏の初代経義より友兼朝経経光経高に至る五代128年間の旧跡地である
昭和33年6月
岩国市史編纂所長
文学博士 瀬川秀雄誌
吉川氏墳墓を後にする。
吉川氏墳墓の西にある若宮八幡宮。
吉川氏の守護神。
吉川氏墳墓の北にある小さな橋。
安養寺橋と書いてある。
この辺りに吉川氏の菩提寺だった安養寺があったようだ。
安養寺の境内に巴川が流入してしまったらしい。
東へ進むと能島八幡宮。
その南、旧巴川を渡ってすぐ西側の駐車場の奥に吉川八幡神社の故地と云う古宮があります。
ということは、ここが吉川氏館の西北隅ということだろうか?
東へ進む。
旧巴川に接して説明板が建っています。
吉川館は古宮を西北隅とし東西約180m(100間)南北約240m(130間)ぐらいの長方形と伝えられ現在の上の段がこれに当る当方の川流が八津沢川の名残ではなかろうか?
この時代の東海道は今の北街道であり、是より能島の地を通って巴川は、綱を手繰る繰舟を用いて渡ったと考えられ能島の八幡社を繰崎八幡と称しこの所を舟越と言った。
尚、吉川の小字に繰崎舟戸の地名がある。
昔は有渡へ渡る重要な幹線であったと考えられる。
この所は初代経義が寿永2年源頼朝より賜り館を築き以後北朝年号康永4年、南朝年号興国5年(1345)まで約160年間居住したと考えられている。
(参考)
寿永2年は1183年で木曽義仲京都に入る年
(参考文献)
有度郷土誌旧有度村 静岡県の歴史中世編静岡新聞社による。
昭和59年1月
有度まちづくり推進委員会
有度公民館歴史クラブ
図。
図によると、この辺りが東北隅。
この川が吉川氏館の東を流れていたと云う旧八津沢川。
館跡の様子。
南に行くにしたがい少しづつ高くなる傾斜地。
図によると、この辺りが南端。
南西隅付近から北を見る。
北へ進んで一周しました。
駐車場の奥に古宮があります。
梶原一族を討ち世に出た吉川氏の故地でした。