登城日 2013年 1月10日(木)晴
難易度 ☆☆
場所 三重県志摩市阿児町国府
相模からやって来た三浦新介の居城です。
国府城は、志摩国府の西の山にあった。
登城口。
城址に稲荷神社が鎮座しているので、鳥居が建ち並ぶ。
説明板。
【国府城址案内】
この山上が国府城主三浦新介の城址である。
三浦新介の父は鎌倉時代伊豆相模の国司従四位下義同で新介はその末子。
故あって「うつろ船」に乗せられ、海に流され、国府岩本海岸に漂着 わが祖先武右衛門国分寺住職に助けられ 後 伊勢国司北畠氏より国府城主を命ぜられた。
今は三浦新介が崇拝していた稲荷大明神をお祀りしている。
この山上が国府城主三浦新介の城址である。
三浦新介の父は鎌倉時代伊豆相模の国司従四位下義同で新介はその末子。
故あって「うつろ船」に乗せられ、海に流され、国府岩本海岸に漂着 わが祖先武右衛門国分寺住職に助けられ 後 伊勢国司北畠氏より国府城主を命ぜられた。
今は三浦新介が崇拝していた稲荷大明神をお祀りしている。
説明板脇にもちょっとした平坦地。
登って行く。
登った所に畑になっている平坦地。
脇に稲荷大明神。
説明板。
【三浦稲荷大明神由来記】
ここにお祭りしている三浦稲荷大明神は、元伊豆相模の国司三浦家において代々お祭りしていたものを、永正13年(1516)三浦新介が国府の地に来りしとき、家運の継栄と、住民の幸運祈念のため、持参奉祀したものであるといわれている。
三浦新介は、伊勢国司北畠氏より、国府城主を命ぜられ、この丘に築城、周辺7か村を治めていたが、永禄13年(1570)九鬼嘉隆志摩国を制覇するに及び廃城となった。
その後この大明神は当時の家老井村武右衛門を始め、井村家代々に引き継がれ丁重にお祭りされて来たもので、特に創祀600年祭には、井村武吉が本堂の改新築を行い現在に至っている。
誠に御利益髙評の大明神として参詣者があとを断たない。
ここにお祭りしている三浦稲荷大明神は、元伊豆相模の国司三浦家において代々お祭りしていたものを、永正13年(1516)三浦新介が国府の地に来りしとき、家運の継栄と、住民の幸運祈念のため、持参奉祀したものであるといわれている。
三浦新介は、伊勢国司北畠氏より、国府城主を命ぜられ、この丘に築城、周辺7か村を治めていたが、永禄13年(1570)九鬼嘉隆志摩国を制覇するに及び廃城となった。
その後この大明神は当時の家老井村武右衛門を始め、井村家代々に引き継がれ丁重にお祭りされて来たもので、特に創祀600年祭には、井村武吉が本堂の改新築を行い現在に至っている。
誠に御利益髙評の大明神として参詣者があとを断たない。
三浦稲荷大明神。
奥にも曲輪がありそうだったが、草茫々だったので行かなかった。 石垣? もう一段上の曲輪へ。 曲輪の様子。 奥に堀切とかあるかもしれないが、行くのは止めました。 反対側から曲輪を見る。 南側に残存土塁。 土塁上から下の曲輪を見下ろす。 土塁上から城下を見下ろす。 ここは海抜17mらしい。 下りる。 この辺りに志摩国府があったのですかね? 振り返る。 もうちょっと詳しく知りたい国府城でした。
奥にも曲輪がありそうだったが、草茫々だったので行かなかった。 石垣? もう一段上の曲輪へ。 曲輪の様子。 奥に堀切とかあるかもしれないが、行くのは止めました。 反対側から曲輪を見る。 南側に残存土塁。 土塁上から下の曲輪を見下ろす。 土塁上から城下を見下ろす。 ここは海抜17mらしい。 下りる。 この辺りに志摩国府があったのですかね? 振り返る。 もうちょっと詳しく知りたい国府城でした。
(おまけ)
国府集落の中に三浦新介の墓があります。
場所は国府神社の少し北です。
相模の名族がこんな所にいたとは…