利神城(播磨国) | 三日月の館

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登城日 山頂部 1990年 春 晴
      山麓部 2005年 8月 7日(日)晴
難易度 ☆☆
場所   兵庫県佐用郡佐用町平福

 

赤松氏一族の別所敦範が築城した城


山城ファン憧れの城。
江戸時代初期にあった天守が霧の上に浮かんだ偉容から別名を雲突城とも呼ばれた。
 

【利神城の概要】 

南北朝期に、赤松一族の別所敦範が利神山に山城を築いたのは貞和5年(1349)、楠木正行が四条畷に戦死した翌年です。 

以来、赤松一族の拠点として約二百年を経て、慶長5年(1600)関が原の戦のあと、播磨52万石の領主池田輝政の甥、池田出羽守由之が平福領2万3300石の領主となりました。 

由之は利神山上に5年の歳月をかけて広壮な城郭を造営し、山麓には城主屋敷、武家屋敷を配し、さらに、街道沿いに町人地を設けるなど、城下町の建設に着手しました。 

利神山上の三層の楼閣は、あたかも雲を衝くがごとき威容から「雲突城(うんとつじょう)」と呼ばれました。 山頂(標高373メートル)に登れば、本丸、二の丸、大坂丸などの石垣群が今も昔の姿をしのばせていますが、登山道が荒廃しているため残念ながら登ることはできません。

 (佐用町観光情報発信局HPより)

 

山麓から見た利神城。
石垣がちょこんと山頂に載っている。
まるで帽子を被ったみたい。

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登りたい…
しかし、登城口に
「利神城跡は、城郭の一部が破損し、大変危険な状態となっていますので、登山はご遠慮ください。 佐用町」
と書いてあった。

 

利神城は崩落の危険があるため登城禁止


せっかくここまで来たので何とか登りたかったのですが、利神城が傷んでしまうことになるので、泣く泣く自粛。
20年前に登った時を思い出す…

 

縄張図
(ひょうごの城紀行下巻より)

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利神城古図

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この頃はまだ智頭急行は開通しておらず、未成線の線路を潜って登城開始。
(開通は平成6年(1994)12月3日)
登城途中に利神城を見る。

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登城道はV字型に曲がっていて、途中NHKのアンテナがあった記憶がある。
しばらく進むと視界が開け、三の丸に到着。
三の丸から見た利神城。
手前の石垣付近に城門があった。
石垣の左側部分が大阪丸。
正面頂上が本丸天守台。

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たぶん本丸石垣だと思う。

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本丸天守台。
ここに三層の天守閣が建っていた。

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これらの遺構は赤松氏のものではなく、慶長5年(1600)に城主となった池田由之が修築したもの。
利神城は、姫路城の隠し砦的存在だった。
池田由之は、備前岡山藩と因幡・伯耆鳥取藩池田氏の嫡流であり、またこの由之の孫が大石良雄(内蔵助)の母だそうです。
池田由之は、慶長14年(1609)に備前国下津井城へ加増転封。
この時、三層の天守等は壊され、その後廃城となったようだ。
最後に、20年前に山麓から見た写真。
写真ではよく解らないが、今(といっても5年も前ですが…)よりももっと石垣がはっきりしていたと思う。
だいぶ傷んでしまったのではないでしょうか。

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この頃はデジカメやパソコンは無く、24枚撮りの「写ルンです」を片手に登城。
途中、龍野城上月城苔縄城へも立ち寄ったので、一城当たり数枚しか撮れなかった。
今思えば勿体ない。

 

5年前に戻る。
山麓には居館が建ち並んでいた。
居館の石垣が随所に残る。

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この石垣は桝形虎口の石垣のようだ。

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別角度。

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利神城を後にする。

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佐用川を渡る。
佐用川の西岸には平福の城下町がある。
この赤茶色の土蔵と川屋敷が建ち並ぶ川端風景も見所。

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案内図。

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利神城廃城後、平福の町を支配した平福陣屋。

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陣屋の表門が現存。

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せっかく来たのに、利神城へ登れないし、町を歩けば猛暑でクラクラ。
次の智頭急行がやって来たので、早々に退散しました。
何と、この利神城は史跡指定されていないとのこと。
早急に保存と修復を望みたい。
そして、いつの日かまた登りたいなぁ~