151 吉田城 その2(三河国) | 三日月の館

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登城日 3回目 2010年 2月 4日(木)曇
      4回目 2010年 9月29日(水)晴
難易度 ☆
場所   愛知県豊橋市今橋町

 

前回は三の丸まで見て廻りました。
今回は外曲輪を見て廻りました。

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JR豊橋駅前から路面電車に乗って、東八町下車。

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このあたりに、かつて吉田宿東惣門がありました。
跡地にミニチュアが建っています。

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説明板。

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【東惣門】

東惣門は鍛冶町の東側に位置する下モ町の吉田城惣堀西で東海道にまたがって南向きに建てられていました。
門の傍らには十に畳の上番所、八畳の下番所、勝手があり門外の西側に駒寄せ場十一間がありました。
惣門は朝六ツ(午前六時)から夜四ツ(午後十時)まで開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていました。

 

絵図を拡大。

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別角度。

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東八町交差点。

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常夜灯が復元されています。

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説明板。

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この常夜灯は文化二年(1805)吉田宿東惣門前(現在の東八町交差点付近)に建てられたものである。
以来「新町の大燈籠」として吉田の名物の一つとなり、近隣の町民をはじめ市民に親しまれてきたが、三河地震(1944)による倒壊とそれに続く戦火にあって放置されてきた。
この状況を憂えた常夜灯保存委員会により昭和55年豊橋公園内に復元されていたが、平成13年が「東海道宿駅制度制定四百周年」の節目の年でもあり江戸時代に建てられていたこの付近に再復元したものである。

 

西へ行く。
曲尺手(かねんて)門跡。

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近づいてみる。

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裏に説明が書いてある。

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曲尺手門は吉田城内への入口の一つであった。
旧吉田城の巽の方位にあり城門の跡にして曲尺手町発展の礎である。

 

さらに西へ行く。
大手門跡。

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側面に説明が書いてある。

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吉田城の大手門は、はじめ東側の飽海口にあったが、天正18年(1590)池田輝政が吉田城を拡張したとき、この地に移したといわれる。
江戸時代には、重層で鯱を備えた堂々たる楼門があったが、明治初年い取り壊されてしまった。

 

写真が残っています。

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ちょっと寄り道。
三の丸の土塁、東南隅。

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三の丸土塁。
道路は堀跡。

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三の丸門。

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(ここから先は前回をご参照。近くには、豊橋ハリストス正教会もあります。)
三の丸の西側に吉田神社がある。

 

所在地  愛知県豊橋市関屋町2
主祭神  素盞嗚尊
創建    鎌倉時代初期

 

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古くは天王社・牛頭天王・吉田天王社と称した古社で、素戔鳴尊(すさのおのみこと)をお祀りし、多くの武将たちから崇拝を受けました。
その中でも源頼朝が深く崇拝したことから、頼朝公の行列を再現した神輿渡御(みこしとぎょ)が天王祭として誕生したのが、豊橋祇園祭の始まりです。
本祭となる神輿渡御の前夜祭として盛んになったのが、江戸時代ごく限られた地域だけに扱いを許された黒色火薬を使った花火の放揚です。
神社に残る文献によると、永禄元年(1558)に今川義元の吉田城代、大原備前守の吉田神社への奉納に始まるとあり、このことが「手筒花火発祥之地」と言われる所以です。
また打上花火についても、これほどの市街地で打ち上げられる花火は、他には類を見ません。
花火業者に混じって打上作業に従事するのは、この日の為に講習に参加し、資格を受けた氏子青年達。伝統の花火を受け継ぐ努力が続いています。
(豊橋観光コンベンション協会HPより)

 

手水舎。
吉田城主松平信高奉献。

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本殿。
吉田神社は、三河守護安達盛長創建と云う。

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本殿脇の稲荷社。
牧野古白が今橋城(吉田城の前身)築城の際に勧請したものと云う。

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この神社では、7月中旬に豊橋祇園祭が行われる。
前夜祭では手筒花火が打ち上げられる。
このマスコットは「トヨッキー」。
本名は、「ホの国ヨシダ」。

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境内には、「手筒花火発祥之地」の碑が建つ。

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説明板。

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轟音と火柱、三河っ子の熱き血潮を沸き立たせる手筒花火こそは、全国に誇る東三河の伝承民族文化の一つです。
こゝ吉田神社に残る記録「三河国古老伝」に、「永禄元年(1558)天王祭礼祀ノ花火ト云フ事始メル」、又、「吉田神社略記」に、「花火ノ創始ハ羽田吉田綜録ニ永禄三申庚年(1560)今川義元公吉田城城代大原肥前守知尚公花火ヲ始ムトアリ 花火ノ尤古ヨリ用ヒラレシハ流星 手筒トス然レドモ其ノ大ナル者ナシ 次デ建物(仕掛花火)綱火等用ヒラルルモ亦然リ 建物ノ巨大トナリシハ元禄十三年(1700)ニシテ手筒ノ雄大トナリシハ正徳元年(1711)ナリ云々」とあります。
花火は、戦国時代新兵器として開発されると共に、氏子により、五穀豊穣、無病息災、家運隆盛、武運長久を神に念じ、若者の手造により大人への門出、勇気の証しとして発達し、その製造放揚の技術が脈々と今日に伝承されて参りました。
この度、手筒花火と花火文化を愛する東三河の皆様のご支援ご協賛により、手筒花火発祥の歴史を誤りなく後世に伝へたく、其の記念碑と標示塔を、ゆかりの地吉田神社境内に建立し、愈々その発展を誓うものであります。

 

吉田神社の西側は、関屋。

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説明板。

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南へ行く。
旧東海道吉田宿があった。

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歌川広重『東海道五十三次・吉田』

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吉田宿本陣跡。

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碑が建つ。

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説明板。

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吉田宿西惣門跡。

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ここにも、ミニチュアが建っています。

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説明板。

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吉田宿西惣門は、江戸時代東海道筋の坂下町と上伝馬町の間にありました。
惣門の左側に番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、四坪の勝手があり、さらに駒寄せの空き地十七坪がありました。
西惣門は、湖西市鷲津の本興寺の惣門を参考にして作成しました。
本興寺の惣門は、吉田城大手門を1674年に移築されたもので、湖西市指定文化財になっています。

東海道は、豊川を渡り御油宿に向かっています。
今日はここまで。

 

(おまけ)

 

お決まりのマンホール。
手筒花火と吉田城。

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出港する船。

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手筒花火の消火栓。

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消火栓ですが、火をつけている。