楽田城(尾張国) | 三日月の館

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登城日 2006年10月15日(日)晴
難易度 ☆
場所   愛知県犬山市楽田字城山

 

文献上、最も古い「天守」の記述がある楽田(がくでん)城。
楽田城へは、名鉄小牧線楽田駅下車すぐです。
楽田駅は小さな無人駅です。
「楽田」の地名は、大縣神社の神田で「額田」と呼ばれたことから来ているという説がある。
【楽田城の歴史】

永正年間に尾張守護代であった織田久長が築城したと伝わる。

以後は楽田織田氏の居城となったが、織田寛貞(織田忠寛の父)の代に、永禄初年に尾張で最大勢力となった織田家末流の織田信長についた犬山城主織田信清に攻略され、信清の出城となった。

ところがまもなく永禄5年(1562)に信清は信長に離反したために犬山城を追われ、楽田城は信長の武将・坂井政尚が守備した。

しかし坂井氏は長男の久蔵尚恒が元亀元年(1570)7月の姉川の戦いで討死、さらに政尚自身も同年12月に近江国滋賀郡堅田(現在の大津市堅田)で戦死したともあり、楽田城には梶川高盛が入って城主となった。

その後小牧・長久手の戦いで前線基地となり、羽柴秀吉の部将であった堀秀政が入り、さらに秀吉自身も陣所としたという。

戦後、楽田城は廃城となった。

遺構は大正年間まではある程度残っていたが犬山市立楽田小学校の用地となって徐々に失われ、昭和55年(1982)には天守台跡も運動場とするために撤去されている。

現在では天守台跡から移築した碑と土塁がわずかに残る。

 (wikipediaより)

 

 かつてはこんな感じだったそうです。
地図と見比べると、道の形が一致していますね。

イメージ 1

現在は楽田小学校の片隅に僅かに土塁が残るのみです。

イメージ 2

近くから全景を撮りたかったのですが、トラックが止まっていて撮れない。
全く!(怒)

イメージ 3

土塁上に城址を示す碑があるのみです。

イメージ 4

探訪ブックス「東海の城」には、小学校の運動場にするために壊された天守台が僅かに載っているのですが、どんな感じだったのでしょうか?
近くには、北之門址を示す石碑と移築城門があったとか。
見落として残念です。