所在地 京都市中京区木屋町三条下る石屋町114-1
山号 慈舟山
宗派 浄土宗西山禅林寺派
本尊 阿弥陀如来
創建 慶長16年(1611)
開基 立空桂叔
山号 慈舟山
宗派 浄土宗西山禅林寺派
本尊 阿弥陀如来
創建 慶長16年(1611)
開基 立空桂叔
かつてこの地は鴨川の中洲だった。
豊臣秀次が罪を得て切腹を命じられ、その妻妾子女30人余とともに遺骸が埋められた秀次悪逆塚(畜生塚)がつくられ、「秀次悪逆塚文禄四年七月十四日」と刻された石塔が建てられたが、鴨川の氾濫により次第に荒廃してしまった。
その後、高瀬川の開削時に再び発見され、京都の豪商で開削責任者であった角倉了以によって、秀次の菩提を弔うために、秀次の戒名「瑞泉寺殿」から名を取り、瑞泉寺を建立された。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/7b/3e/j/o0640048014659875328.jpg?caw=800)
地図。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/bd/51/j/o0640048014659875335.jpg?caw=800)
説明板。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/9a/25/j/o1280096014659875344.jpg?caw=800)
豊臣秀次。
秀吉の後継者として関白まで登り詰めたが、実子秀頼が生まれると秀吉から次第に疎まれ、文禄4年(1595年)に謀反の疑いをかけられ、高野山に蟄居を命じられ、やがて切腹させられた。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/05/15/j/o0640048014659875352.jpg?caw=800)
秀次は秀吉にとって甥にあたる。
豊臣秀次が罪を得て切腹を命じられ、その妻妾子女30人余とともに遺骸が埋められた秀次悪逆塚(畜生塚)がつくられ、「秀次悪逆塚文禄四年七月十四日」と刻された石塔が建てられたが、鴨川の氾濫により次第に荒廃してしまった。
その後、高瀬川の開削時に再び発見され、京都の豪商で開削責任者であった角倉了以によって、秀次の菩提を弔うために、秀次の戒名「瑞泉寺殿」から名を取り、瑞泉寺を建立された。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/7b/3e/j/o0640048014659875328.jpg?caw=800)
地図。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/bd/51/j/o0640048014659875335.jpg?caw=800)
説明板。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/9a/25/j/o1280096014659875344.jpg?caw=800)
豊臣秀次。
秀吉の後継者として関白まで登り詰めたが、実子秀頼が生まれると秀吉から次第に疎まれ、文禄4年(1595年)に謀反の疑いをかけられ、高野山に蟄居を命じられ、やがて切腹させられた。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/05/15/j/o0640048014659875352.jpg?caw=800)
秀次は秀吉にとって甥にあたる。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20191203/22/kanezane2/a6/ec/j/o0300040014659875362.jpg?caw=800)
瑞泉寺本堂。
境内の奥に豊臣秀次の墓石がありました。
墓石は角倉了以によって、「悪逆」の文字が削られている。
周囲を一族家臣の五輪塔が囲んでいます。
寺伝。
木屋町へは、夜飲み歩く時に行くくらいなので、ここに秀次の墓石があるのは気がつかなかった。
灯台下暗しですね。
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