御館(越後国) | 三日月の館

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登城日 2019年 4月13日(土)晴

難易度 ☆
場所   新潟県上越市五智1丁目22

 

上杉謙信が関東管領・上杉憲政の居館として建設した館跡です。

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今となっては設備過剰となってしまった直江津駅。

直江津駅の西に安国寺公園。

この公園の約100m南方に、室町時代に建立された安国寺があった。

碑が建っています。

安国寺の南西に御館があったと云う。

主郭の中心付近は御舘公園となっています。

説明板。

【御館(おたて)】

 

御館は、小田原城主北条氏康に敗れ、越後に逃れた 関東管領上杉憲政のために上杉謙信公が造営した館で、後に憲政から関東管領職を継いだ謙信公が 政庁としても使用したといわれています。
御館は、古い地籍図から二重の堀に囲まれた東西250m・南北300mの大規模な館であったと考えられています。

東京ドームの1.6倍の大きさでした。

中心の郭は、四方を堀で囲まれた東西120m・南北150mの規模で、ここ御館公園の6倍の大きさであったとされています。

発掘調査が行われた40数年前に、越後の中世史を語る貴重な遺跡であることから、中心部分が「御館」の名を冠した公園として残されました。
少し足を伸ばしてJR線路まで出てみてください。

右手の独立した山が春日山城です。

 

【関東管領 上杉憲政公顕彰之碑】

 

 

天文21年(1552)1月 関東管領上杉憲政は小田原城主北条氏康の上野侵攻により代々関東管領職を継いだ山内上杉家が110余年6代にわたり本城とした平井城(藤岡市)から越後春日山城に入った。
憲政は上杉の名跡を長尾景虎に譲る。
景虎は永禄4年(1561)閏3月 鶴岡八幡宮において上杉政虎と改名(のちに謙信)して関東管領職に就任。
憲政はここ御館を居館として過ごした。

藤岡市と上越市との絆を未来に伝えることを祈念してこの地に碑を建立した。

 

平成27年 秋季
群馬県 藤岡市
関東管領 平井城址保存会
会長 〇〇〇〇

 

説明板を拡大。

城址碑。

御館の乱説明板。

【御館の乱】

 

天正6年(1578)に上杉謙信公が没した後、二人の養子景勝公と景虎公が跡目を争った「御館の乱」が起こりました。
景勝公は、謙信公の軍事拠点の春日山城を、一方景虎公は政治拠点の御館を占拠して戦ったのでしょう。
翌7年3月、景虎公のたてこもる、ここ御館が景勝公の総攻撃を受けて落城。

景虎公は妙高市の鮫ヶ尾城で自害。

2年にわたり越後の国を二分した争いは、御館の落城と景虎公の自害により幕を閉じました。

この時、至徳寺などの名刹や府中の六千軒が焼けたと伝えられています。
この争いの中でめざましい働きを見せたのが景勝公の重臣、樋口与六、後の直江兼続公です。

この戦功により兼続公は奉行に取り立てられ、上杉家の中で重要な地位を占めるようになりました。
御館跡の発掘調査では、鉛や青銅製の銃弾のほか、武具や刀剣等が見つかりました。

ゆがんだ銃弾は、御館の乱で実際に発射されたものといわれ、攻防の様子を今に伝えています。

 

説明板から主郭を見渡す。

公園を後にする。

公園の西側の住宅地。

ここも主郭だった。

JRから引き継いだ日本海ひすいラインの線路際から春日山城を見る。

遺構が何も残っていないので、説明板から往時を偲ぶしかない御館跡でした。