117 岩櫃城 その2(上野国) | 三日月の館

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絵図。

登城口。

説明板。

まだ三合目。

尾根通り分岐。

折り返す。

熊出没注意!

登って行く。

空堀跡。

反対側。

中城跡。

中城跡の南端。

中央竪堀を登って行く。

今ここです。

中央竪堀を登って振り返る。

碁盤の目曲輪が僅かに見えた。

中城跡から二の丸跡へ向かう。

二の丸跡を見上げる。

本丸下横堀。

屈曲して続いている。

登って行く。

二の丸跡。

二の丸跡の様子。

二の丸から本丸を見る。

堀切を渡る。

北側。

南側。

本丸。

模型で。

本丸から二の丸を見下ろす。

南側を見下ろす。

柳沢城の方を見下ろす。

櫓台跡。

櫓台跡から見下ろす。

本丸跡の碑。

説明板。

【岩櫃城由来記】

 

吾妻八景を代表する岩櫃山(標高802m)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。

城郭の規模は1.4k㎡と上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の九能城と並び武田領内の三堅城と称されました。

その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄6年(1563)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。

ときの城主は斎藤基国(または憲弘)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。

こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。

天正2年(1574)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。

その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。

天正18年(1590)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。

そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(慶長20年(1615))により、四百年余の長い歴史を残し、その姿を消しました。

 

東吾妻町観光協会

 

本丸の西側へ。

南側には腰曲輪。

北側には土塁。

さらに西へ。

南枡形虎口。

北枡形虎口。

見上げる。

本丸の西端。

ここで引き返す。

のが普通ですが…

四合目。

ここからは城めぐりではなく登山。

登って行ってしまった。

五合目。

西曲輪(詰の丸)かな?

堀切。

だんだん尾根が細くなってく。

滑りやすいので注意!

尾根道を進む。

天狗岩。

右、岩場迂回路。

左、岩場あり。

弱気になって右へ行ったら誤算。

足場のない急斜面を進む羽目に。

岩場ありの道と合流。

その先、岩場あるじゃんむかっ

六合目。

赤岩通り分岐。

榧の口。

えー、まじ。

沢通りだとここが六合目。

岩の間を攀じ登る。

七合目。

八合目。

登って行く。

九合目。

頂上?

尖った細い岩場。

見晴らし。

高所恐怖症なので足が竦む。

群馬原町駅方面を見下ろす。

よく見たら、あっちの方が若干高かった。

でも、もう無理。

六合目から赤岩通りを下りて行く。

旧道分岐。

十二様通り(旧赤岩通り)へ。

十二様通り四合目。

あまりこの道を進む人がいないからか、道が消えかけている。

郷原城跡へ。

郷原城跡。

縄張図。

切岸。

曲輪。

その先は草茫々。

十二様通りへ戻る。

三合目。

潜龍院跡。

説明板。

正面には櫓台と虎口があったのかな?

潜龍院跡を後にする。

秋ですね~

よくあの山登ったなぁ~

真田道。

JR郷原駅から帰りました。

最後にスタンプ。

城が続日本100名城に値するかは微妙ですが、なんかとても楽しかったです。