130 諏訪高島城 その3(信濃国) | 三日月の館

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本丸から冠木門を見る。

説明板。

冠木門が楼門に建替えられ、名のみ残ったらしい。

説明板。

【高島城 浮城とも言う】

この地は高島城本丸跡である。

この城はおよそ380年前、文禄・慶長年間日根野織部正高吉が7年を要し彼独特の築城の技術を生かし諏訪湖の波打ちぎわにきずいた難攻不落の水城で別名を浮城とも言われている。

関が原役の後は諏訪氏の居城となりそのまま転封もなく維新までつづいた。
この間、城は中山道や甲州街道の道中記には必ずのせられる名勝でもあった。
本丸内は藩主の御殿や書院、また一般政務の御用部屋、郡方、また賄方などがあり、能舞台、氷餅部屋など多くの建物で埋まっていた。
明治維新の改革で高島藩は消え、明治8年には天守閣も破却されたが、諏訪氏の在城260余年間 一度も百姓一揆をおこさせるような暴政のでたことのない名城であった.
明治9年本丸跡は高島公園として公開され、護国神社も祭られ、諏訪の人人の心のよりどころとして親しまれてきた。

今日も城内と言われた大手門以南の地形がおおよそ昔のままの姿をのこして近世の城郭を考えるいい資料である。

今度の復興については文部省文化財専門委員大岡実博士の設計により、破却当時の姿を忠実に再現したものである。
庭園は天守閣復興とともに諏訪高島城復興期成同盟会長岩本諏訪市長が自らの設計により、諏訪市が人の心の和によっていよいよ発展することを念願して、人字形の池に心を島で表わし、滝や渓流を配して躍動感を与えて造られたものである。

昭和45年5月

 

本丸絵図。

亀石。

水をかけると願いが叶うらしい。

松。

天守閣へ。

ありし日の高島城天守閣。

形は元通りですが、板の色がなぁ~

明治4年(1871)高島城遠景。

破却後の本丸。

慶應4年(1868)高島城下町図。

御枕屏風の本を買って帰りました。

登る。

本丸を見る。

南を見る。

二之丸を見る。

西を見る。

往時は諏訪湖だった。

天守閣を出る。

出た所に小天守があった。

天守閣を振り返る。

本丸へ。

能舞台跡。

能舞台は市内の温泉寺の本堂として現存している。

温泉寺の山門も高島城の城門を移築したものだが、どこの門だったかは不明。

本丸御殿跡。

【本丸御殿跡】

ここは、本丸御殿があった場所である。

家老など重職との接見や重要な行事が行われた表御居間・御次・下御次・下段之間があり、御納戸・中御納戸・御祐筆部屋・大納戸部屋など藩主の身の周りの世話をする部屋が付属していた。
奥には藩主の私生活の場である御休息居間・同ニ之間・同三之間があり、江戸城でいえば、大奥にあたる長局と呼ばれる部屋が隣接していた。
また、御用部屋や郡方、御勝手方など藩政の中核となる部屋も備えられていた。

諏訪市教育委員会

 

現在は、庭園となっている。

本丸の北東へ。

多聞櫓跡。

角櫓。

キハダ。

角櫓から本丸を見渡す。

東側にも多聞があった。

持方月櫓跡。

櫓台から内濠を見る。

多聞櫓跡と南之丸を見る。

多聞櫓跡南下し振り返る。

南之丸へ行ってみる。

陸橋から北を見る。

南を見る。

南之丸跡。

【高島城南之丸跡】

高島城本丸の南方にある一郭を南之丸という。

松平忠輝のお預かりを勤めて以来整備され、以後、高島藩が江戸幕府の罪人を預かった場所である。

周囲は湿地で、堀と柵とで厳重に囲われ、ただ一つの橋が城に通じているだけの孤立した郭であった。
忠輝は、徳川家康の六男で越後高田60万石の城主であったが、大坂夏の陣直後の元和元年(1615)家康から勘当を申し渡され、翌年幕府から改易され、正室五郎八姫(伊達政宗の長女)とも離別、伊勢朝熊で2年、飛騨高山で7年過ごしたのち、寛永3年(1626)から初代高島藩主諏訪頼水が預かった。

改易の理由は、乱暴な性格とも、大久保長安等と天下取りを企てたからとも伝えられるが、真相は不明である。
忠輝の南之丸での生活は、外部との交渉を絶たれた寂しいものではあったが、家臣は諏訪で抱えた者を加えると85人にもなり、大名の格式をもって生活した。

58年間の長きに渡り不遇な境涯にあったが、文芸に心を慰め、余生を楽しんだという。

天和3年(1683)、93歳の生涯をここで閉じ、市内の貞松院に葬られた。
その後、幕府の儀式を司る高家を務めていた吉良上野介義央の養嗣子である吉良義周が、赤穂浪士襲撃事件後の評定によって、領地を召し上げられ元禄16年(1703)に四代藩主諏訪忠虎へお預けとなった。

高島藩では南之丸を修理し住まわせたが、3年後の宝永3年(1706)に病没、市内の法華寺に葬られた。

以後も数人の預かり人がいたが、幕末までにはこの場所は「御茶園」となったようである。

諏訪市教育委員会

 

松平忠輝公館跡と諏訪鉄平石。

模型で。

堀跡?

南之丸の南西には武家屋敷が広がっていた。

堀跡が僅かに残る。

東側部分。

この石垣は往時のもの?

城域の南東付近に何故か松平容保の歌碑。

城域の南限に島崎川。

城域の南西隅。

左は武家屋敷。

右は諏訪湖だった。

水路が東西になっている所。

左側は二之丸が本丸を囲むように南側まで延びている所。

その南西隅。

水路は南北に。

左が城域。

右は諏訪湖だった。

水門があった辺り。

本丸南西隅から北を見る。

道路は諏訪湖だった。

本丸南西隅から東へ。

武家屋敷街。

本丸の南に位置する土戸門。

土戸門から西を見る。

何故かここに三之丸温泉。

土戸門の石垣。

桝形門を進む。

説明板。

【土戸門跡】

土戸門はお城のお勝手口であった。

上薪はじめ、その他の納めものもここから運びこまれたし、商人や職人たちも出入りした。

役所むきの用件でも冠木門お通りの資格を与えられていないものはここから出入りした。

諏訪市教育委員会

 

浮城手水庵。

トイレじゃないかむかっ

土戸門を本丸から見る。

土戸門から本丸を見る。

ここにも多聞櫓。

本丸東南隅に富士見櫓があった。

本丸の南に諏訪護国神社が建てられている。

本殿。

本殿脇。

道路から西は諏訪湖だった。

北を見る。

西側も多聞櫓が建っていた。

御川渡門跡。

現在は三之丸にあった門が移築されている。

城外から御川御門跡を見る。

南を見る。

北へ。

往時は無かった門。

天守閣。

天守台。

道路とくっついているのが物悲しい。

車当たらないでよ!!

ここから水濠復活。

最後にもう一度天守閣。

諏訪湖対岸から見た高島城。

改めてよく見るとその良さが解る高島城でした。