山麓駅からロープウェーに乗り城山山頂へ。
<ロープウェー山麓駅>
桜が描かれたかわいらしいゴンドラで、およそ3分の空中散歩。
<岩国城ロープウェーのゴンドラ>
山頂駅に着くとからくり時計が迎えてくれます。
<ロープウェー山頂駅>
<山頂のからくり時計>
童謡に合わせて鵜飼いの人形がクルクル回る。メルヘン
山頂駅から岩国城まで約300m、歩いて8分とのことですが―
<広い道or山道、あなたならどっち?>
山道というのがどれほどのものかわからなかったので、広い道を選びました。
<広い道(徒歩10分になっとる!)>
舗装された緩やかな坂道。途中には周辺遺構のひとつ・大釣井(おおつるい)があります。
<大釣井>
本丸の西側にあたるこの辺りは水ノ手郭と呼ばれ、城の水場として重要な場所だったとのことですが、わたしはその遺構よりそこから伸びる大樹に目を奪われてしまいました。(←巨木好き)
<遺構から伸びる大樹>
まるで空に昇る龍のようじゃないか・・・
坂を上りきると美しい天守が。
<岩国城>
岩国城は慶長13年(1608年)、吉川広家によって造られました。
三層四階の上に物見を置き、上の階が下の階より大きく張りだす珍しい構造から桃山風南蛮造りとも称されるとか。
現在の天守は昭和37年(1962年)の再建で、市内を眺望できるよう元あった旧天守台から南へ約50m移動させ復元されたそうです。
<旧天守台>
お城の中は展示室になっており、岩国の歴史に触れつつ最上階へと進みます。
<貴重な歴史資料が並ぶ>
最上階からは岩国の街並みが一望。
<最上階>
すごい!瀬戸内海まで見えるー!
<最上階からの展望>
実に爽快な眺めですが、これこそここに岩国城が築かれた理由でした。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いにおいて、吉川氏と姻戚関係にある毛利輝元は石田三成率いる西軍の総大将でしたが、吉川広家は状況を冷静に判断。決戦前夜、毛利軍の中立を約束する代わり毛利氏の領国112万石を保証する密約を、東軍・徳川家康と結びました。
<左:吉川広家、右:毛利輝元(岩国城パンフより)>
密約通り毛利軍は動かず、小早川秀秋の寝返りもあって関ケ原の戦いは東軍の勝利で終結。しかし輝元は名目上とはいえ西軍の総大将であったことから領国の保証は反故とされ、周防国(山口県東部)と長門国(山口県西部)の30万石に減封、広家は安芸国大朝から毛利氏の領地内、岩国3万石に移封されてしまいました。
関ケ原の戦いが終わったとはいえ情勢は不安定で(隣国はあの福島正則だし)、初代岩国藩藩主となった広家は、有事に備えこの見晴らしの良い、城山の山上に城を築いたというわけです。
<岩国城近影>
海からの敵襲をいち早く察知できるのはもちろん、こうして見ると錦川はかなり蛇行しており、城山を囲むように流れる様はさながら堀のよう。まさに天然の要塞です。(関ケ原以降の山城は珍しいらしい)
<寛文8年(1668年)に描かれた地図(錦帯橋はまだない)>
天守に先駆け、慶長7年(1602年)には日常の居館である御土居を城山の麓に造営。
岩国城は山頂の要害と山麓の居館を持つ強固なお城でしたが、元和元年(1615年)一国一城令によって山上の要害が破却され、御土居が政治の拠点となりました。
<御土居跡に鎮座する吉香神社(前記事参照)>
築城に7年もかけたのにたった7年で破城になるなんて・・・
公的には幕末まで藩として認められなかったというし、関ケ原の功労者なのにあんまりでないかい?と気の毒になったのですが、
<天守前から錦川を望む>
城下町を見れば岩国が独自の行政ながら栄えたことは明白。錦帯橋という遺産も後世に残せたし、広家さんも少しは浮かばれたかな?と思いました。
おまけ
帰りは天守の南側にある門から山道で下りました。
<山道に通じる門>
思ったほど山道じゃなかった。(笑)
<森林浴が心地よい山道ルート>
・岩国城:山口県岩国市横山 HP