ノープランで出かけたゆるゆる忘年会ツアーの2日目。どこに行こうか思案して、「そういえば昨日の八幡竈門神社にあった鬼の石段、アレと似たようなお話が国東にもあったな。」と、久しぶりに熊野磨崖仏を訪ねることにしました。
【八幡竈門神社の鬼の石段】
熊野磨崖仏の入口は豊後高田市田染の田原山の山麓にあります。
<熊野摩崖仏入口>
受付で拝観料を払い、胎蔵寺脇に設けられた参詣道へ。
<熊野磨崖仏への参詣道>
ややっ!道がきれいになっている!そういえばこちらを訪ねるのも20年振りだったな・・・ ^^;
しばらく行くと、川の向こう岸に見事な石垣が連なるのが見えます。
<見渡す限り石垣>
側にあった「献穀田跡」の標柱から「昔は棚田だったのかな?」と思ったのですが、このような山中を開墾したこともだけど、それが献穀田(※)だったことにも驚きです。※献穀田:皇居宮中で行われる新嘗祭で収める新穀を収穫する斎田
<参詣道で見た紅葉>
<道端に咲いていた山野草>
入口から300m程のところで参詣道は左に折れ、その先に石の鳥居が建っています。
<石の鳥居>
その後ろには恐ろしく長く伸びた石段が。
<磨崖仏へと続く石段>
これこそ鬼が築いたと伝えられる石段です。
『昔々、田染(たしぶ)の里にどこからか一匹の鬼がやって来て住みついた。その鬼が人を食うと言い出したので、権現さまは何か良い方法はないかと考え「一夜のうちに100段の石段をつくれたら許してやろう。」と約束された。権現さまは到底できるはずもないと思われていたが、鬼はひょいひょいと石を担ぎ上げみるみるうちに99段まで築いてしまった。鬼が100段目の石を担いで来るのをご覧になった権現さまは「これは何とかせねば。」と、コケコッコー!声高らかに鶏の鳴きまねをされた。驚いた鬼は石を担いだまま逃げ出した。』
八幡竈門神社では里人を鬼から守ったのは八幡さまですが、こちらは権現さまです。
<額束に「三社大権現」の文字>
急こう配で自然石を乱積みしただけの石段は、
<自然石を積んだだけの石段>
いかにも鬼がつくったものらしい。
しかも上の方になると石の大きさも積み方もバラバラで、
<石段上部>
夜明けを前に鬼の焦る様が見えるようです。
ほの暗い森の中、石段を3分の2ほど登ると突然左手が開け、
<石段の周りに茂る木々>
光とともに岩壁に彫られた大日如来と不動明王が現れます。
<熊野磨崖仏(国指定重要文化財及び史跡)>
なんて神々しい・・・
右の大日如来は高さ約6.8m、左の不動明王は高さ約8m。宇佐八幡の化身・仁聞菩薩が造立したという言い伝えがありますが、「六郷満山諸勤行(ろくごうまんざんしょごんぎょ)注進目録」や「華頂要略」等から平安時代末期の作と推定されるそうで、国内最古にして最大級の摩崖仏です。見上げるような巨像でありながらまるではじめからそこにあったかのような、自然に溶け込む様に心奪われる・・・
薄く伏せられた切れ長の目に尾翼の張った鼻、口角を下げた唇と、精巧に彫られた大日如来に対し、
<大日如来>
不動明王はなんとも素朴な造りで。
<不動明王>
右手に剣を持ち、左の弁髪がねじれて肩に下がる様は不動明王像によく見られるお姿ですが、下膨れの頬に穏やかな口元はどこかお可愛らしい(失礼!)。
憤怒の形相でないのも珍しいですが、もともと煩悩を取り除き人々を救うために憤怒の相をしておられることを考えると、このお顔はお不動さまのやさしい御心の顕れなのかな?とも思いました。
それぞれの仏さまの前で心ゆくまでお参りした後、「ここまで来たなら権現さまにもご挨拶を。」と、石段をさらに50mほど登って熊野神社へ。
<熊野神社>
御由緒がなかったので詳しいことはわからないのですが、熊野信仰は鎌倉時代の終わりにはこの地に流入していたと考えられており、先の岩壁に彫られた2躯の神像も
<大日如来と不動明王の間に彫られた神像>
烏帽子を被った男神であることから、家津御子(ケツミコ)と速玉(ハヤタマ)と見られているそうです。(右側の崩れたところに3つ目の像が刻まれていた痕跡があり、これが夫須美神と推察されているらしい。)
「いざお参りを・・・」と拝殿前に進み、ちょっと考える。
<熊野神社拝殿>
拝殿前にある香炉とロウソク立て、境内に鎮座するたくさんの石仏さま。
<本殿と石仏>
しかしお社に掲げられる扁額には「神社」とある―
<拝殿に掛かる扁額>
「神社・・・だよね?」 今一度確認してから二拝二拍手一拝。
神と仏と鬼と―
今も神仏習合が色濃く残る国東が、わたしは大好きです。*^^*
・熊野摩崖仏:大分県豊後高田市田染平野2546-3
※石段が滑りやすいので歩きやすい靴でお出かけください。受付で杖を貸してくれます。