かつて南九州に居住していたとされる種族・熊襲(クマソ)。記紀によれば景行天皇の御代、その御子・小碓命(オウスノミコト/後のヤマトタケルノミコト)によって制圧されたという―

その熊襲が住んでいたという場所がなんと!妙見温泉の山中にあるとのこと。その名も「熊襲の穴」。

 

<熊襲の穴(画像は登山道にある案内塔)>

 

調べてみると、ちょうど鹿児島神宮から高屋山上陵に向かう途中にあることが判明。前日、ヤマトタケルが熊襲征伐の際上陸したといわれる若尊鼻を訪ねているだけに「行かないという選択肢はないやろ~?ニヤリ」 迷うことなく駐車場にイン。意気揚々と山道を登り始めました。

 

<熊襲の穴への登山口>

 

一礼して鳥居をくぐり、

 

<鳥居>

 

よく整備された登山道を進みます。木漏れ日が美しい・・・

 

<熊襲の穴へと続く登山道>

 

「それにしても静かだ・・・」 駐車場はほぼ満車でしたが、道中すれ違う人は1人もいません。(この辺りは妙見石原荘さんの所有地らしいので関係者の方の車かも?)

どこからか聞こえてくる鳥の声、木と土の匂い・・・ 清々しい山の空気を堪能しつつゆるゆると登っていたのですが、2つ目の鳥居をくぐったあたりから

 

<2つ目の鳥居>

 

磐座を思わせる大きな岩があったり、なんとなく辺りの空気が違ってきたような・・・

 

<登山道脇で見られた大岩>

 

そしてそれらしい岩の巨壁を前にした途端、

 

<熊襲の穴>

 

圧倒・・・!

なんだろう、この雰囲気・・・ 何か強い力が岩壁から放たれているような・・・

  

<熊襲の穴入口>

 

勇猛だったという熊襲の人々。もしかしてその気配がまだ残っているのでは・・・?そう思え、一瞬立ち尽くしてしまいました。

 

岩壁の足元に3つ目の鳥居があり、その先に穴が低く口を開いています。

 

<熊襲の穴>

 

鍾乳洞のようなものを想像してたのだけど(こんな感じ↓)、

 

<面不動鍾乳洞の入口(2018年4月撮影)>

 

意外に小さい・・・

 

穴の左手にはたくさんの絵馬、

 

<絵馬(初穂料は木の箱に)>

 

手前にはいわれのありそうな大きな岩が鎮座しています。

 

<注連縄を張った跡が見られる大岩>

 

そのそばに案内板があったので読んでみると、「・・・え?」

 

<熊襲の穴の案内板>

 

ちょっ、ちょっと待って!熊襲の首領・川上梟師(「古事記」では熊曽健)がヤマトタケルに討たれたのってここなの?!ガーン うわー、いきなり「古事記探訪」になっちゃったよ。あせる

 

思いがけない展開に「古事記」ファンかねし大興奮!しかしよくよく考えてみるとこの先がクマソタケルの殺人現場(?!)なわけで―

「ちょっと怖いかも~・・・(黄泉比良坂再び?)」と二の足を踏んでいると、「わっ!」 入口の方から相方の声が聞こえました。見ると、若い2人にしきりに謝っています。お2人は笑って応えながら立ち去っていかれたのですが、相方に理由を聞くと、まさか中に人がいると思わず、入口にあるスイッチを触ってしまい洞窟内の照明を消してしまったんだと。

 

<入口にある洞窟内用照明スイッチ(手動)>

 

いや、それ絶対怖いよっ、止めてっ!!ガーン

 

とはいえ、訪ねる人がいることがわかり一安心。(お2人にはごめんなさいあせる) 照明スイッチがONになっていることを確認し、中に入ります。

 

<熊襲の穴入口>

 

一瞬早くも行き止まりかと思ったのですが、左手に身を屈めて入れるくらいの低くて狭い穴があり、その先を進むと―

 

<熊襲の穴>

 

別世界・・・!

こんな広い空間が広がっているなんて・・・!(百畳敷くらいあるらしい)

 

それにしても壁画の色が当時のものとしては鮮やか過ぎるのでは?と思ったら、こちらは前衛画家として知られる荻原貞行氏が1990年に施したモダンアートとのこと。太古のイメージなのでしょうか、

 

<色鮮やかな前衛アート>

 

天井には月と星を思わせる絵も見られます。

 

<天井に描かれた月と星(?)>

 

「ここがヤマトタケルの熊襲征伐の地・・・」 洞窟特融の湿り気を帯びた生暖かい空気を肌に感じながら(夏は涼しいらしい)、わたしは「古事記」の一説を思い返してみました。

 

『猛々しい小碓命に恐れをなした景行天皇は、オウスに大隅の熊曽健(クマソタケル)兄弟を討つよう命じます。オウスが熊曽兄弟の家に着いてみると、ちょうど室の新築祝いの宴が催されるところでした。オウスは叔母である倭比売命(伊勢神宮を創建した皇女)から譲り受けた衣装を身にまとい、髪をすき下ろして娘のふりをし宴に紛れ込みました。

まだ16歳だったオウスはそうすると乙女そのもの。一目で気に入った熊曽兄弟は自分達の間に座らせました。そして宴もたけなわとなった頃、オウスは懐に隠し持っていた刀で熊曽兄の胸を刺しました。

続いて逃げる弟を追いかけ背中を掴むと尻から刀を刺し通しました。息絶え絶えに熊曽弟は尋ねます。「あなたはいったい誰ですか?」オウスは「我は景行天皇の皇子、倭男具那命(ヤマトオグナノミコト:オウスの別名)だ。お前達が天皇に服従しない無礼者ゆえ、お前達を討つよう天皇から仰せつかった。」と答えました。

熊曽弟はオウスの強さに感服し、自分の名を献上。今後は「倭健命」と名乗るよう言い残して果てました。(「古事記」より)』

 

初めてこの項を読んだとき「だまし討ちかよ・・・汗」とそれまで抱いていたヤマトタケルのイメージが崩れ去る思いがしたのですが、まだ16歳だったんですよね。その若さで、しかも単身で敵陣に送られたことを思うと、これが生きて帰るための精いっぱいの策だったんだろうなと、その身の上が恐れ多くも不憫に思えました。

 

それにしてもあっぱれなのが熊襲の民です。首領であるクマソタケルは命果てる前に自分の名を譲ることで朝廷への服従を示し、民もこれを受け入れオウスを生きて大和に返したわけですから。もしオウスを返り討ちにしていたら・・・ 大勢の朝廷軍に攻め入られ、殲滅させられたかもしれません。そして当然ヤマトタケルによるこの後の東征もなく、日本はどうなっていたのかな?なんて思うのです。

 

洞窟内の隅に小さな石が祀られています。

 

<洞窟内に祀られる石>

 

ヤマトタケルの遺徳をしのぶものか、はたまた熊曽健の鎮魂を祈るものか・・・

何も記されていなかったのでわかりませんが、そっと手を合わせ来た道を戻りました。

 

・熊襲の穴:鹿児島県霧島市隼人町嘉例川(妙見石原荘西側の山、案内標識有)