一点の染みもない白絹だとか、一片の雲もない青空だとか。
生きている限り、そんな心持ちでいられる時間はほとんどない。
新選組離脱に関する伊東さんの天才的かつ平和的思惑を知ることができても、尚、私には気がかりがあった。
一つは、秋斉さんの小指に巻き続けられている包帯。
そして、もう一つは、いまだ伊東派の離脱を知らない花里ちゃん。
秋斉さんには、まだ痛むのかと聞いてみたものの、明確な答えは返ってこなかった。
ただ、あまり触れて欲しくなさそうな空気が漂ったため、それきり話題に出来ていない。
そうこうするうちに、彼は、大坂へ下ってしまった。
花里ちゃんには、藤堂さんから知らせがあるまでは黙っているようにと、秋斉さんに命じられた。
「言うまでもないやろうけど」の言葉通り、もとより私はそのつもりにしていたが、島原の芸子である花里ちゃんの耳を塞ぐのは不可能だ。
自然、どこからともなく耳に入った。
「さくらはんは聞いてはる?伊東はんらぁのこと」
置屋の二階の暗がりで、そっと話しかけられたときの胸の痛みは忘れられない。
嘘はつけないから、知っていると答えた。知っているけど、土方さんから聞いたわけではない、と。
出来る限り花里ちゃんの気持ちを慮ったつもりだけれど、実際彼女はどう感じたものか。そうどすか、と呟いたきり、二度と同じ話題を口にすることはなかった。
そうこうするうちにやってきた、弥生最後の六の日。
元々土方さんは、伊東さんの話題を好まない。
ましてや分離の話など、できたら触れたくはないところ、敢えて口にした。
「伊東さんたち、新選組を離れられたらしいですね」
針仕事をしながら、そういえばの風を装って水を向ければ、片膝を立てて柱にもたれ、庭へと続く障子窓の敷居にもう片足を投げ出したいつもの格好で煙管をふかしていた土方さんの視線が、ちらりとこちらへ寄越された。
「ああ」
煙管を咥えたまま口の端で短く答える。
「藤堂さんも、ですか」
「ああ」
イエス、ノーで答えられる質問ではダメだ。
聞き方を変えよう。
「いつ美濃から戻られたんです?」
「まだだ」
私なりの搦め手も、一言であしらわれてしまった。
しかも、視線も庭に戻されてしまっている。
この時の私の気持ちを擬音にするなら、「ぐぬぬぬぬぬ」だろうか。
一体、あの人は美濃で何してんの?いつになったら帰ってくんの?花里ちゃんをどうする気なの?
渦巻く疑問と苛立ちが全て、盛大な溜息となって漏れ出てしまった。
と、煙草を詰め直していた土方さんの手が止まり。
「じっき戻る。二、三日中だ」
おっかねぇな、まったく。
続くぼやきはごく小声だったけれど、聞こえてますよ、しっかり。
別に私は、土方さんを威嚇するつもりなんかなくて。
藤堂さんのことだって、花里ちゃんに一言もないままにする人だとは思ってない。
このどうしようもない苛立ちは、誰のせいでもなく自分のせい。
花里ちゃんを慰める術も、言葉も持たない、不甲斐なさ故のもの。
(―――仕切りなおしだ)
針仕事は一旦やめて、台所で丁寧にお茶を入れた。
月にたった三回しかない逢瀬。出来る限り穏やかに、心楽しく過ごすため。
お茶を淹れましたよと声をかけると、土方さんはお盆の上から自分の湯のみを取って、縁側に座り直した。
目線で促されて、私も隣りに腰掛ける。
二十六夜の月は明け方まで顔を見せない。
暗い庭からは、それでも春の香りがした。
競いあって咲く草花と、水分を含んだ強い土と、いつのまにかすっかり温んだ風と。晩春の、力強い命の香り。
しばらく二人で沈黙を重ね合わせていたけれど、ふと気配を感じて隣りへと視線をやった。
土方さんは、身じろぎもせず庭を見つめていて。
ただ、その右手親指だけが、手の中の湯呑を撫でていた。
白い粉引きの夫婦湯呑。
清水寺の参道で購った、一度はどちらも割れてしまったものの、金で継がれて今も大切に使い続けている思い出の品。
「―――寂しくなりますね」
親指の動きを止めてこちらを見た土方さんは、なんだ?という顔をした。
「藤堂さんが行ってしまわれたら」
きっと、土方さんは伊東さんの分離を快く思っていない。
新選組の副長として、秋斉さんが語ってくれたこと以上に色々思うことがあるだろう。
でも、私が寄り添えるのはそこじゃない。
一人の人として。
共に上京した同士として。
年の離れた友人として。
去り行く藤堂さんを思う気持ち。
土方さんは、「ああ」とも「いや」とも言わなかった。
ただ少しだけ眉間の力を抜いて、今は暗くてよく見えないお気に入りの庭に目を戻し、もう一度だけV字に継がれた湯呑を撫でた。