置屋に戻ると、丁度お客が帰るところだった。
「あら、宗庵先生」
「やあ、こんにちは」
花里ちゃんが声をかければ、にっこり微笑む。
宗庵先生は、藍屋のかかりつけ医。蘭方が専門だけれど、本道もよくする優秀なお医者様らしい。
私に種痘を施してくれたのも、寝付くたび往診してくれるのも彼だ。
「今日は、どのような」
体調の悪い遊女がいただろうかと思いながら尋ねると、宗庵先生は右手の小指を立ててみせた。
「小指、ですか」
「主や。指が痛むんやと」
補足されて、合点がいった。
主とはもちろん秋斉さん。痛む小指は、先日『ぽっぺん』の破片で傷つけたあれだ。
あの日から秋斉さんの小指にはずっと、自分で手当てしたらしい包帯が巻かれていた。
ただの切り傷ならいつまでも痛むのはおかしい。破片が残っているのかもしれないのだから、早く医者へかかれかかれと言っていたのだが、ようやく重い腰をあげる気になったらしい。
「やっぱり残ってましたか、破片」
「いんや。念のため開いてみたけどな」
「うわ・・・・・・」
麻酔もなしに指先を切開したと聞いて、背中が震えた。
「そもそも膿んでもないし、傷痕かって針の先ほどしか残ってへんかった。悪いところがあるとしたら・・・・・・」
言い差して、宗庵先生は拳で自分の胸を叩いた。
「胸?旦那さん、胸を病んではるの?」
「いや、そうやのうて」
花里ちゃんの言葉に、まいったな、と先生が苦笑う。
「このご時世だ。島原の置屋も何かと厳しいやろし、しっかり稼いで差し上げなはれ」
花里ちゃんは素直に「はい」と返事をしたが、既に自分の思いに沈みかけていた私は、曖昧に一礼をしただけだった。
傷もないのに痛む指。
病根は胸にあるという先生の言葉。
胸、つまりは心。
伊東さんから贈られた『ぽっぺん』を壊してしまったことが、胸の閊えとなって、秋斉さんを悩ませているのだろうか。
それとも、他の何か?
帳場の番頭さんへの挨拶もそこそこに、私の足は自然、秋斉さんの部屋前で止まった。
障子は開いている。ただ、秋斉さんは衝立の向こうで姿は見えない。
私は廊下に正座して、暫く秋斉さんの気配だけを感じていた。
ぱちりぱちり、響いてくるのは算盤を弾く音。
仄かに漂ういつものお香と、とろりと重い墨の香り。
見えなくとも、イメージできる。
正座した腰から背中、首筋まがですんなり伸びた後姿。
親指同士かさねあわせた足袋は真っ白で。
筆を執る腕は、淀みなく大胆に動く。
いつもの、秋斉さん。
思い描く見慣れた姿の中、右手の小指だけが違う。
癒えた筈の傷口から、細く糸のような血が滴る。
その鉄錆に似た匂いが、墨と混じって殊更強く香った気がして。
「さくらはん?」
私の放った、ゲフンゲフンとわざとらしい咳払いに衝立の向こうから、秋斉さんが顔を覗かせた。
「なにしてはんの、さっきから」
―――バレてる。
「そないなとこ座りこんで、気色の悪い」
「ごめんなさい・・・・・・」
恥じ入りながら、心の中でもう一人の自分が、早く聞けとせっつく。
何を悩んでいるのか聞けと。
(でも、そんなこと―――)
聞いたところで答えてもらえるとは思えない。
「お茶っ」
何とか話を繋ぐため、お茶に誘おうとしたら声がひっくり返ってしまった。
「お茶にしませんかっ、お茶っ」
「してもええけど。丁度、到来もんの羊羹があるさかい」
不自然な勢いに首を傾げられたものの、首尾よく、差し向かいに納まれた。
「いつまでも寒いさかい、片付きしまへんな」
私がするというのを制して、自ら湯気の立つ鉄瓶を傾けた秋斉さんがぼやく。
包帯を気にしてか、無意識か、右手の小指だけが立てられているのを見て、私は口を開いた。
「お西さんに行ってきました」
湯飲みにすすいだお湯をこぼしに注いでいた秋斉さんは、僅かに視線を上げただけ。
「伊東さんは、新選組を離れられたそうです。先帝のお墓をお守りするんですって」
とぽとぽ優しい音を立てて、湯のみに注がれるお茶。
秋斉さんは無言のまま、一つは私に押しやり、残る一つを一口啜って。
「そないなこと聞きに、わざわざ出かけてはったん」
わてに聞いてくれはったらよろしおしたんに。
そう言って、にっこりして見せた。
「やっぱり、ご存知だったんですね」
「へぇ、一通り」
「―――伊東さんが知らせてきたんですか?」
予想はしていたのに、なんとはなしに面白くない気持ちになる。
私の心を知ってか知らずか、秋斉さんは、「さあ、どないどっしゃろ」と、またにっこり。
分厚く切った羊羹を勧められるも、手を出す気になれない。
「なんにせよ、先帝の御陵衛士とはうまいこと考えはりましたわな。新選組にしても、分離を認めんわけにはいかへん」
「―――どうしてですか。新選組と尊王活動は相容れないのでは」
「あん人らが取り締まってはるのは、尊王家やからやないよ。尊王、尊王言うて、徳川のご政道に不満を唱える輩どっしゃろ」
どう違うのか、よくわからなかった。
私の困惑を見て取ったか、秋斉さんが湯のみを置く。
「徳川(とくせん)家は、征夷大将軍として、帝からご政道の一切を任されてはる。その徳川家に弓引くことは、帝に弓を引くも同じやから、ひっ捕らえる。これが、新選組の御用」
なるほど、と私は頷いた。
「先帝は特に、徳川家を頼りにしてはった。その御陵を守るのやから、徳川に弓引くわけやない、いうんが伊東はんの言い分」
「なるほど」
今度は声に出た。
「だから、近藤さんも土方さんも反対しなかったんですね」
「新選組が大樹様、伊東はんらが天朝様。双方が組めば、公武の合体となりますわな。今までの行くたてがありますさかい、新選組の看板背負っとるだけで、芸州でも九州でも肩身が狭いと、嘆いてはりましたから、伊東はんは。『御陵衛士』の名で動けるのが、一番有難いんとちゃいますか」
「そうかあ・・・喧嘩別れじゃないんだ」
ほっとした途端に空腹を感じ、羊羹へと手を伸ばす。
いただきますと口に含めば、ほどよい甘さとねっとりとした触感が舌に心地よい。
「新帝はまだお若い上、外祖父の中山卿は長州との結びつきの強いお人どす。先の負け戦もあって、いつまでも長州憎し一本槍では具合がようない。そこらも見越して、近藤はんも、分離を許しはったんかもしれまへんな」
伊東さんが、『御陵衛士』として、新選組と長州藩士の仲を取り持ってくれるなら、言うことなしだ。
「新選組、朝廷、長州―――誰も損しない、『三方よし』ですね」
聞きかじったどこぞの商人の心得になぞらえてみせると、秋斉さんは「うまいこと言いはる」と褒めてくれた。
それでいて、両眉に憂いをけぶらせ、「そやけど」と呟く。
―――元々私は、秋斉さんの悩みを知りたくて、ここへ来たはずなのに。
「三方だけやおへんどっしゃろ、方角は」
こぼす左手は、傷をつくった右手を庇うようにしていたのに。
伊東さんの考えに感服しきりな私は、すっかり安心してしまっていた。
争いを好まない、話し合いを大切にするあの人なら、もつれた糸をきっとなんとかしてくれる。
お夕さんが命がけで遺したコブシのメッセージも、新選組を離れてこそ、染み入るだろうと。
それが、口の中でとろける羊羹よりも、甘い甘い考えだとは、ちっともわかっていなかった。