利き手に怪我をするということは、非常に不便なものだ。
炊事や洗濯、風呂掃除や雑巾がけ。ルーティンワークのすべてに支障をきたす。
一人で入浴することすら困難で、花里ちゃんに手伝ってもらう始末。
秋斉さんから「他出禁止」を言い渡されての謹慎生活たった三日で、私はとことん落ち込んだ。
誰の役にも立てず、逆に他人の手を煩わせないと生活できないって、なんて辛いことなんだろう。失って初めて知る健康の有難さ。
親指側から斜めに走った傷そのものよりも、心がじくじくと痛みだす。
掏摸を追いかけたこと自体が間違いだったとは思えないが、犯罪者相手に油断した自分の甘さが悔やまれてならない。
働けない、鍛錬もできない謹慎五日目。
私はどうにもくさくさする気分を持て余し、二階で唯一格子のない窓から外を眺めることで気を紛らわせていた。
膝の上ではクロが丸くなっていて、春の陽気を楽しんでいる。
島原は遊郭といっても文化サロンのような役割も果たしているからか、晴れていれば昼間でも割と人通りがある。
時折通る顔見知りと挨拶を交わしたり、退屈顔をからかわれたりしているうちに、私はついついうとうとし始めた。
いつしか窓枠に突っ伏していた頭に、なにやら堅いものがこつんと当たり、びくりと震えて目を開ける。
「さくらさーん」
寝ぼけ眼を窓下へやれば、沖田さんが手を振っていた。
その隣に土方さんの姿を見つけて、ぼんやりしていた意識が一気に覚醒する。
「渡すものがあるので、降りてこられますか?」
「あ、はいっ。今行きます」
慌てて立ち上がった私の膝から滑り落ち、クロが抗議の声を上げた。
床の上に、懐紙でくるんだビー玉ほどの塊が落ちており、拾って中を確認すると、金平糖がいくつか現れた。
どうやら、沖田さんが投げたこれが頭に当たったらしい。
階段を降りて見世から通り庭へ出て、表へ顔を出す。
いつものように爽やか笑顔の沖田さんに怪我の具合を尋ねられ、まだ痛むけれどもよくなってきていると答えると、こちらもいつものように仏頂面の土方さんに、そんなに早くよくなるわけあるかと叱られた。
でも、実際すでに傷は塞がりはじめ、つい先ほど往診してくれたお医者様にほどなく抜糸だと言われたのだ。
それを告げると、土方さんは眉を潜めて首を振り、「そんな馬鹿な」と呟いた。
「治りが早いならいいじゃないですか、あやかりたい」
なぜか黙り込んでしまった土方さんにそう言って、沖田さんは手にしていた風呂敷と、いくばくかの銭を差し出してきた。
「これ、馬詰から預かってきました。草履と、おつりです。草履は新さんが一度履いたから、鼻緒が緩んでいるかも」
新さんのお古が不快だったら処分してくださいねと笑う沖田さんは、今日も悪気なく酷い。
苦笑しながら風呂敷を受け取り、借りた下駄を包んで預ける。
その一連の動作に、土方さんがもの言いたげな視線を寄越す。
なんですかと目顔で問うても小さく首を振られてしまったので、私は話の継穂を探して話しかけた。
「もうすっかり今まで通りに見廻りされてるんですね」
「ああ・・・。諸家に変わって会津、東西の奉行所と共に俺らに市中を巡邏しろとおっ達しがあったからな」
「天朝様からも『ますます励め』とお言葉を賜りましてね。近藤先生が感激してしまって」
ああ、よかった。
新選組の立場はとりあえず安泰らしい。
ほっとして笑みを浮かべかけたところへ、沖田さんが聞き捨てならないことを言い出した。
「おかげでここのところ宴続きで、今夜も上七軒でお茶屋遊びにお付き合いです。ね、土方さん」
え、またですか。
確か、先月は私の知っているだけでも三回ご登楼でしたよねー。
いや別にいいけど。
私はヤキモチやける立場にないし。
やいてない。やいてません。
無表情無関心を装って、それでもそうせずにいられずに土方さんの表情を窺うと、ついっと視線を逸らされた。
そんな土方さんを見、ついで私へと目を向けた沖田さんが小首を傾げる。
「土方さんはさくらさんのことを『あいつは吝気を起こさない』って言ってたけど、妬いてますよね?」
常々、沖田さんは空気の読めない人だと思っていけど、違う。
読めないんじゃなくて、読む気がないのだ。
逸らされていた土方さんの視線が私に戻ってくる。今度は私が目を背ける番だ。
「妬いてんのか?」
「そんなことあるわけないでしょう」
「大事ないですよ、さくらさん。土方さんのことは私が見張っておきますから」
被せ気味に否定したのに、沖田さんは私の言うことなどやっぱりてんで聞いていない。
「なにかあったらちゃーんとお知らせしますからね」
「よけいなことを言うな、総司」
「嫌だな。言われて困ることをするおつもりなんですか」
あーあ、また始まったよ、兄弟喧嘩が。
でも、頑張れ、沖田さんっ。いけいけ沖田さん。
傍観を決め込みつつ、内心で沖田さんに声援を送っていると、ふた筋向こうの角を曲がって秋斉さんが帰って来た。
それに気づいた土方さんは、若干ばつが悪そうに口を閉じ、そんな土方さんに、秋斉さんは「ええお日和どすなぁ」と柔らかく笑む。
「先日はうちのさくらがえらいご面倒をおかけしまして。今日はお二人お揃いで、どういったご用件どしたやろ。へえ、草履どすか。それはまたわざわざおおきにありがとうさんどす」
やんわりとした京都弁で流暢に話す秋斉さんに対して、土方さんは「うむ」とか「ああ」とかしか口にしない。
どうやら秋斉さんが苦手らしい。
「野暮したないさかいこれで引っ込ませてもらいますけども、どうぞごゆっくり」
「いや、ミセ先に屯ろしては迷惑だろうから、これで失礼する」
「そうどすか。ほんなら、お勤めお気張りやしておくれやす」
そんな会話を交わして頭を下げた秋斉さんは、私の肩を促すように押し、「今日は花里が昼見世からそのまま夜の座敷に出るさかい、わてが背中を流して差し上げまひょか」
囁きにしては大きな声で、とんでもない冗談を言った。
何を言いだすのかと唖然とした私の耳に、「あっ、ちょっとっ。 待ってくださいよ、土方さーん」と駆けだしていく沖田さんの声が届き。
「存外からかい甲斐のあるお人やなぁ」
そう呟いた秋斉さんが、綺麗な顔に浮かんだ人の悪い笑みを扇子で隠した。