※ごめんなさい。ワンエピ飛ばして更新してました。
スリの話の前に入るエピソードです。リンクを直しておきますー。
桃の花の盛りが過ぎ、代わりに桜が満開となってきた。
日に日に温かくなり、朝の鍛錬で竹刀や棒を振っていると、汗が滲みだす。
気がつけば、この時代に迷い込んでから一年が経とうとしている。
慶喜さんに拾われて、藍屋で働かせてもらうことになり、秋斉さんや菖蒲さんたちにこの時代の色んな常識を教えてもらった。
土方さんと知り合って、いつの間にか彼に恋をして。
彼の周囲の人々や、彼を巡る様々な出来事にも浅からず関ってきた。
それらの一つ一つがリアルであればあるほどに、現代での記憶はふわふわと頼りなく薄れゆく。
薄れゆく記憶と入れ替わるようにして、悪夢の形をとって意識の表面に浮き上がってこようとする得体の知れないモノたちも相変わらずではあるけれど。
この時代は、血なまぐさい。
芹沢さんの粛清を思い返すまでもなく、普段歩いている市中でも、刃傷沙汰を見聞きにすることは珍しくない。
命の軽い時代。
なのに、現代にいる頃よりずっと「生きている」と実感できる。
きっと、人は「死」を身近に感じない限り、「生」を意識することもできなくなった生き物なのだろう。
とにかく、私はこうして生きている。
逞しく、前向きに。
ここに来る直前は、生きる意味を見失って、食事も睡眠もろくにとらずに早くこの命が尽きてしまえばいいとすら思っていたというのに。
手水舎で濡らした手拭いで額を拭い、咲き誇る桜の花を見つめる。
世に花の種類は多けれど、桜ほど日本人の美意識を刺激する花はないだろう。
咲き始めの可憐さ。満開の華やかさ。そして散り際の儚い美しさ。
自分の名前の由来になった花だけど、私には無縁なものばかりだ。
「男らしく」育てられ、「女らしさ」に欠ける自分に悩んだ時期もあったけど、今はそれでいいと思える。
儚い美しさなど、私には必要ない。
さくらはさくらでも、いずれは散ってしまう花ではなく、地面に太い根をはりゆるぎなく立つ幹のように生きていければいい。
そんな思いが私に竹刀を振らせる。
それが正解なのかはわからないままながら。けれど、自身の選んだ道が正しいかどうかなど、きっと息を引き取る瞬間までわからない。
ふと。
人の気配と足音が、私の意識を物思いから掬い上げた。
「やあ、さくら」
「あ・・・・・・」
鳶色の着流しに鶯茶の羽織を身につけ、曙光をうけた淡い色の毛先を春風に遊ばせて佇んでいたのは、慶喜さんだった。
「お久しぶりですっ、お元気でしたか?」
駆け寄って尋ねた私を、慶喜さんは一瞬両目を細めて見つめ、それから以前と変わらないきらきらとした瞳をくるりと動かした。
「うん、概ねはね。さくらに会いたくて倒れそうだったけどね」
どこまで本気かわからない軽口も健在だ。
こんな朝早くに現れたということは、昨夜はどこかの揚屋でお泊りだったのだろうか。
尋ねてみれば、「やだなあ」と眉を顰められた。
「俺のこと遊び人だと思ってやしないかい?お前に会いに、早起きしてきたのにさ」
「・・・・・・」
本音はちょっと言いづらくて、私は無言で微笑んで見せた。
「ちょっと、その笑いよう。なんだか秋斉に似て来てるよっ」
心底嫌そうにそう言って、慶喜さんが私の両頬を摘むから。
私は、今度は心の底から笑った。
そんな私を見て、慶喜さんも楽しそうに笑う。
「・・・ありがとう、さくら」
ひとしきり笑った後、まだその余韻の残る柔らかな表情で、慶喜さんが言った。
なんのことだろう。
慶喜さんには世話になるばかりで、お礼を言われる覚えはない。
「変わらずいてくれて、さ」
ああ、なるほど。
「けいき」さんが「よしのぶさん」だと知っても、ということか。
得心はしたが、返事に困った。
私が態度を変えないのは、慶喜さんが「一橋慶喜」でも、それがどれだけすごいことなのか、よくわかっていないからにすぎない。
偉い人なのだということはわかる。
けれど、実感としてわが身に引き寄せられないだけだ。
だから、お礼を言われるようなことでは、全くなくて。
「そんなの。お礼を言うのは私のほうですよ」
慶喜さんには、感謝してもしきれない。
こんな世の中だ。
彼のように立場ある人は、危険なことも沢山あるだろう。
それでも、彼は身元の知れない私を拾ってくれた。
居場所をくれた。
今、私がここで生きていけているのは、慶喜さんのおかげだ。
うまい言葉はでてこない。
けれど、精一杯の誠意をこめて、私は慶喜さんにお礼を述べた。
「ありがとうございます、本当に」
聞きたくなくても耳にはいる慶喜さんの噂は芳しくない。
角屋を訪れたお侍が、「二心殿」と陰口を言っているのを聞いたこともある。
尊王色の強い水戸藩の出身だから、幕府の上層部からは疑いの目を向けられているらしいと知ったのはつい最近のことだ。
藍屋で見る慶喜さんはいつも明るく上機嫌で、愚痴や泣き言を言っているのを見たことはないけれど、辛い立場にあるのだろう想像はできる。
「私にはなにもできませんけど、慶喜さんのお仕事がうまくいくように、応援してます」
結局のところそんな月並みな言葉で結んでしまったのに、目を丸くして私の言葉を聞いていた慶喜さんが、あまりにも嬉しそうな表情で首をすくめたものだから、なんだか恥ずかしくなって、そっぽを向いた。
「応援してますから、頑張ってお仕事してください」
「うわぁ。ますます秋斉みたいなことを言うね?」
怖い怖いと耳を隠す慶喜さんに笑いを誘われる。
意識的なのか、天性のものか、慶喜さんは人の気を逸らさない人だ。
一緒にいるといつのまにか笑っている自分に気づく。
この人は、いずれ将軍になる人で。
後の世で、「最後の将軍」という枕詞と共に語られる人で。
そのことが何を意味するのかを思えば、ちらりと胸の中を暗いものがよぎったけど、私はそれに蓋をした。
蓋をしたことにすら、気付かなかった。