三月も気づけば早下旬。散り急いだ桃や桜に変わって、あちらこちらで白く可憐な卯の花が開き始めたその頃に、私は、前方を行く小柄な男の背中を、懸命に追いかけていた。
男は、掏摸(すり)である。
・・・らしい。
芝居小屋前の雑踏の中で、「掏摸やっ、捕まえとくれやすっ!」との叫び声を聞き、指さされた男を反射的に追いかけた。
猿のように敏捷な相手はわらじばき。私は草履。
どうしたって遅れを取るため、すぐに草履は脱ぎ棄てた。
ああ、また秋斉さんに叱られるという後悔も、草履とともに置き去りにして。
四条大橋を渡り、通行人をよけながら駆けること暫し。
何度か角を曲がって、ついに袋小路に追い詰めた。
「財布、返しなさい」
世情不安。
諸式高。
それに伴う困窮からか、押し込み強盗やひったくり、掏摸など、京の市中は物騒になる一方だ。
目の前の男も、生活苦からの犯行だったらしく。
「見逃して。わてには病気の母親がいます。この金がなかったら、親子で首くくるしかないんや」
土下座をされて、困惑した。
「気持ちはわかるけど、それをとられた人にだって暮らしがあるよ。そのお金がないと困るかも知れない」
「・・・・・・」
男は項垂れたまま答えない。
「仕事はしてないの?」
「・・・西陣で織物職人をやっとった。けど、生糸の値段が上がってしもて・・・」
横浜開港に伴い、外国との貿易品として重宝されている生糸。
利に聡い商人が生糸の買い占めをし、織物職人が困っているという話は耳にしたことがあった。
「とにかく財布を返して。そしたら、奉行所に突き出さないであげるから」
「・・・・・・・・っ」
財布を受け取ろうと右手を差し出した途端、俯いていた男の顔が跳ねあがり、なにか光るものが振るわれた。
掌に走る鋭い痛み。
刃物で切り付けられたと理解したのと、いくつかの足音と数名の男性の怒鳴り声を耳にしたのとはほぼ同時だった。
ぽたぽたと滴り落ちた血液に茫然とした私の傍らを、黒い羽織が駆け抜けて行く。
「いたぞっ!捕まえろっ」
「神妙にしやがれっ。そんな剃刀でどうしようってんだ」
離れたところで聞こえるそんなやり取りから、どうやら剃刀で切りつけられたらしいと知る。
ぱっくり割れた掌から血が流れ出すのを、手首を強く握って止め、私は路地裏を出た。
男は既に組伏せられており、後ろ手に縄をかけられていた。
捕り手は四人の男性で、そのうち一人は私のよく知っている人だった。
四人の中で飛びぬけて背が高く、筋骨隆々の熊みたいな―――永倉さんだ。
「永倉さん」
「うおっ」
歩み寄って声をかけると、大げさに驚いた永倉さんは、私の姿を認めて目を見開いた。
「なんだ、おまえ。さくらじゃねぇか・・・って怪我してんのかっ」
四人のうち二人が永倉さんの指示で、掏摸を奉行所へと連れて行き、一人が私の止血をしてくれた。
手当を受けながら事情を聞いたところ、祇園を見回り中だった永倉さんたちは掏摸が逃げたと聞きつけ、捜索中だったのだと言う。
「若い男が追ってったとは聞いたけど、まさかお前だったとはよぉ」
呆れたように言われ、私としても苦笑するしかない。
「しっかし、そうしてるとお前らやっぱり似てるな」
一歩下がって私と手当をしてくれている隊士を眺め、永倉さんが呟いた。
似てるって、私とこの人が?
指摘を受けて、改めて目の前の隊士を見つめる。
覚束ない手つきで手当てをしてくれている隊士は、まだ若い。
新選組のような荒々しい集団に属しているとは思えないほど、優しい顔立ちで、体つきも随分華奢だ。
そう言えば、以前永倉さんになんとかって隊士と間違えられたっけ。
確か・・・・・・「貴方が馬詰さん、ですか?」
「・・・はい。馬詰柳太郎いいます」
問いかければ、馬詰さんははにかんだように微笑んで、上目に私と視線を合わせたかと思うと、すぐに下へ逸らした。
「似てませんよ」
「似てるって」
「女子に対して、失礼じゃ」
おどおどしつつ、それでも永倉さんを窘(たしな)める馬詰さん。
「いいんです。永倉さんが失礼なのはいつものことですから」
「何言ってやがんだ、俺は正直なだけだ」
「・・・・・・」
更に失礼だって、その言い草。
「それより、その傷、医者にいけよ。縫わないといけねぇかもしれねぇぞ」
「すぐに行った方がいいと思いますけの。あの・・・副長には私から報告を致しますけん、永倉先生はこの方を医者へお連れしたらいかがじゃろうか」
「お、そうかい。じゃ、いくぞ、さくら」
「え、いや。私、裸足・・・・・・」
私の意向を全く聞かずに歩きだそうとする永倉さんに、真っ黒になった足袋を示して見せると、信じられん女だと首を振られた。
「前言撤回だ。馬詰の方がよっぽど女らしい」
「・・・・・・」
言い返せない。
言い返せないけど、その発言は馬詰さんに対しても失礼だと思う。
無礼千万な永倉さんの言葉にも、馬詰さんはにこにこしている。
この人本当に新選組隊士なのかな。
そういや、島原でも見かけたことがない。
「おら、おぶってやる」
「えっ」
おもむろに屈みこんだ永倉さんに広い背中を示され、思わず後ずさってしまった。
「いやっ、裸足でいいです。歩きます」
「そんなワケにゃいかねぇだろうが、さっさとおぶされよ」
「あのぉ・・・・・」
押し問答をする私たちに、馬詰さんが控えめに口を挟む。
「よければ、私が草履を求めてきちゃるけぇ。たしか、すぐそこに履物屋がございましたけん」
「助かりますっ」
「なんだってそんなに俺に負ぶわれるのが嫌なんだよ・・・・・・」
憮然とした永倉さんの呟きは無視して、馬詰さんにお金を渡した。ぴょこんと一礼して大通りの方へと駆けだしていく彼の背中を見送りろうとした私は、その馬詰さんを遮るように小路の入り口に立ちはだかり、彼の口から小さな悲鳴を引きだした人の姿を目にして、倒れ伏したくなった。
まずいっ、非常にまずい。
「ご苦労だったな、永倉」
「おう、土方さん」
永倉さんの影に隠れようしたが、無駄だった。
当然のように私を見つけ出した土方さんの眉間に、みるみる強烈な縦ジワが刻まれいく。
爪楊枝、何本挟めるかな。
ふざけたことを考えたのは、現実逃避だ。
他意はない。