あなたが私にくれたもの・・・テレジェニック | 金子光希オフィシャルブログ「そらとぶおにいちゃん」Powered by Ameba

あなたが私にくれたもの・・・テレジェニック

皆さん、こんにちは。
やっぱり、障害レースの方が疲れます。寮長です。
何事も一生懸命やれば、疲れるものですが、やはり精神的な疲労感は障害レースの方がキツイ感じがします。

では、今日から以前コメントにて何回か拝見させて頂いてた、「テレジェニック」という馬のお話です。
お時間、興味がありましたらどうぞ。



はじめに…

今まで出来るだけ等身大の自分を日記に投影してきたつもりですが、もう1つの顔である障害騎手・金子光希を語るにおいて決して外せない一頭の馬がいます。


その馬の名前は
「テレジェニック」

様々な方々に読んでいただいた
『あなたが私にくれたもの…』
シリーズの締めくくりとして、この馬の事を書きたいと思います。

先にお許しを請いたいのですが、あまりにもこの馬と過ごした四年間が濃密で、また思い入れが強すぎるため、かなりの長文になると思われます。

実際、皆さんにどこまで上手くこの馬の事を伝えられるか…そして、特にこの馬をご存知ない方に伝わるかどうか…

自信ないよぉ

毎度の事ながら、乱筆・乱文などと、合わせてお許しください。

それでも構わないという方は、お読みになって下さると嬉しく思います。
では、どうぞ!


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2002年

この年は俺が騎手になって3年目を迎えた年。

デビュー3年目は、障害レースに乗りだした事もあるが、今思えば自分の中で転機であり激動の1年だったように思う。

まず障害に乗りだすようになって、騎乗する厩舎の数が増え、それと共に平地のレースの騎乗機会も増えていった。

今となってはあり得ないように思えるが、週末土曜、日曜日で全24レース中10レース以上の競馬に騎乗するようになっており、あの頃が一番がむしゃらになってやってた時期だったと思う。

そしてこの年は与えられるチャンスも多かったが、危険を伴う年だった。

相次ぐ落馬・・・

そして人生初めての骨折・・・

大袈裟かもしれないが、「このままじゃ、本当に死ぬ…」
と思い、厄払いに行ったぐらいだ。


そんな年を越し、減量の取れた4年目。
運命なのか、それとも必然だったのか、1頭の競走馬と出会うことになる。

その頃まだ恩師・矢野進先生の厩舎に所属していたのだが、一頭とにかく評判の悪い馬がいた。

その馬は前年の秋に一度入厩したものの、どこに吹っ飛んで行くか分からない、まともに真っ直ぐ走って行かないという酷い馬で、周囲からはこう呼ばれていた。


「あの馬は気チガイだ…」と。


あまりにも人の手に負えないため、前年に一度来た時は入厩一週間で去勢するために放牧へ出たぐらいだ。

そうして去勢しセン馬になる。

要するにニューハーフになるって訳だ。

なぜか男のナイーブなところの玉をとると、不思議なものでおとなしくなる馬がいる。
しかし彼の場合ははっきりと効果があったのか、なかったのか…今だに謎のままだ。

去勢をし、再びトレーニングセンターに帰ってくることとなったのだが、師匠は何を考えたか、その「キチガイ馬」に俺を乗せることにしたらしい。


助手に乗せようにも、競馬には勿論、騎手しか乗れない。
また、こんな危ない馬を余所の所属騎手やフリーの騎手に乗せて怪我でもされたら後味が悪い。

師匠に聞いた訳ではないから定かでないが、弟子である俺を使うのが理にかなっていたのだろう。

そして俺を普段から跨がらせておけば、競馬に乗せる旨を馬主にも頼みやすい。

あくまで推測だが、こう考えれば腑に落ちるし、賢人な師匠のことだから合点がいく。
そうして俺が調教することが決まった。



初めての調教の朝、準備運動から乗る為に厩舎へと向かう。

厩舎に着きすれ違う人々に挨拶する。
鼻をくすぐる寝ワラの香りが心地よく、ボンヤリ寝ぼけ眼の俺に朝を告げた。

目的である馬房の前に着き、初めて彼を見た瞬間、寝ぼけていたはずが、瞬時に目が冴えハッとした。

「なんてキツい眼をした馬なんだろう…」

その気性の荒らそうな馬が、テレジェニックだった。

彼は耳を絞り、ひたすら威嚇するその姿はどう見ても、人間を好いてるようには見えない。
どちらかと言うと敵意剥き出し。
その姿は、不機嫌そのものと表現するのが一番適切に思えた。

「こりゃ寝ぼけてられそうにないや…」

いやはや、乗る前からこんなにおっかない馬は久しぶりに見た。

厩舎から引っ張りだし、厩務員さんに跨がらせてもらうと、自分自身が身構えていた所為もあるのか、今にも吹っ飛んでいきそうな気配を漂わせている。


「こ、怖ぇ・・・」


その時は、リアルにそう思った。

なんというか、何か危険な事をしでかしそうな馬というのは、その気配があるのだ。

背中を緊張させ強ばっているような股下の感触。

あれは、そういう馬に乗ったことのある人にしか分からない気持ちの悪さだ。

また口向き(ハンドリング)が悪く、気を抜けば瞬時に落とされる。
事実、何度この馬に落とされただろう。

気を緩めずとも、くるっと回転するあまりの速さゆえ、自分の股下から瞬間移動したかのような錯覚を受けることもあった。
とにかく手先の軽い(動きの素早い)馬だったのだ。

この日は無事に1日の調教を終える事が出来たが、精神的にも肉体的にも疲労困憊になってしまった。


そうして毎日の調教をこなしていき、ついに初めての競馬を迎えることとなった。

返し馬はいつものように危険をはらんだものだったが、いざ競馬がスタートすると思いのほか素直に走ってくれ、気になるところと言えば最後の直線だけがフラフラ真っ直ぐ走らないことぐらい。

俺は、無事に終わった安心感を胸に抱きながら、相棒の首を優しく撫でた。


4月・5月・6月、着々と平地の競馬をコンスタントに消化し、俺は徐々に力をつけていく相棒の成長に目を細めていた。

しかし8月の競馬で走ったテレジェニックの背に、自分の姿はなかった。

俺は6月の末に騎乗した障害レースで落馬し、鎖骨を骨折してしまったのだ。

悔しかった。

テレジェニックに乗れない事が悔しかった。

「毎日毎日、危ない思いをしながら一生懸命調教し、頑張ってきたのに…」

そして競馬に騎乗できない焦りに翻弄された。

今年から減量の恩恵も無くなったのに、このままでは乗り馬が減ってしまう…

「休んでる余裕なんて無いのに…なんでこんな時に骨折だなんて。クソっ」


焦りから手術一週間で抜糸し、その日から無理にリハビリを始めた。
おかげで今でも鎖骨にその時の反動が残ってしまった。


今ではあの頃は少し若かったな、なんてアホな自分の鎖骨の古傷を見ながら笑えるが、本当に一生懸命やっていたのを思い出す。

そしてテレジェニックと共に過ごした四年間の中で彼の背中に俺がいなかったのは、これを含め五回だけだった。


鎖骨を骨折してから約一ヶ月後、9月初旬の競馬に走ったテレジェニックの背中には、再び元気になった俺がいた。

まだ骨折したとこがギクシャクし痛みがあったが、競馬に乗れるのが心の底から嬉しく思えた。


結果は五番人気で二着。

未勝利を勝ち上がれるところまで、後一歩まできたように思えた。

しかし、その後も着にはくるものの結局勝つ事は出来なかった。

思えば自分のミスもあったのだろう。
それが非常に歯痒かった。


平地・未勝利のレースにテレジェニックを使う事が出来なくなってしまった11月。

師匠・矢野 進先生にこう言われた。
「光希。障害を跨がせてみろ。」と。

この時俺は、こんなどこ吹っ飛んでいくか分からない危ない馬、果たして障害なんて飛ばせるのだろうか…ってか無理じゃね?
なんて心の底では思っていた。

最近では牧場で基礎を作ってから、トレセンで競馬に向けて本格的に障害調教をする馬がほとんどだが、テレジェニックはやっていない。
はっきり言って自信はない。


しかし、何事もやってみなけりゃ分からないという事を、この後思い知らされる事となる。

最初、他の馬同様にコースを見せて歩き、(歩きと言っても興奮していて大変だったが…)小さな障害のある角馬場へと向かった。

地面に転がしてある横木と呼ばれる丸太を、ゆっくり歩いて跨がせる。

並脚・速脚・駈脚。

最初、おっかなびっくり跨いでいたテレジェニックだったが、徐々に徐々に…というより、一回飛び越えた障害には自分から唸って飛び越えていった。


「この馬すげー!」


彼には失礼だが、「馬鹿と天才は紙一重」というように、その時ふと思ったぐらいだ。

ただ者じゃないという予感がした。

そうして順調に調教が進み、迎えた12月の中山競馬場。

そこには障害馬として生まれ変わった新生・テレジェニックと騎手・金子光希がいた。


そして二人は夢に向かって歩み出す・・・
新生・テレジェニック