杉原千畝はイスラエルから英雄として讃えられています。
杉原は、第二次世界大戦中のリトアニアで、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人に対して、
日本政府の命令に背いて日本通過ビザを発給し、約6千人もの命を救ったとされる外交官。
自らの工場で働くユダヤ人を救ったことで知られるドイツ人実業家、オスカー・シンドラーになぞらえて、「日本のシンドラー」とも呼ばれています。
杉原は、外務省の官費留学生として満州(現・中国東北部)のハルビンでロシア語を学んだ後、同省に採用されます。
満州、フィンランドなどでの勤務を経て、39年にリトアニアの日本領事館に領事代理として赴任しました。
1940年夏。
ポーランドを追われてきた大勢のユダヤ人避難民が、ソ連・日本を経由して第三国に移住しようと日本通過ビザを求めてきました。
当時、ナチス・ドイツに占領されたポーランドでは、
ユダヤ人狩りが行われており、その後アウシュビッツなどで
ホロコーストによる大量虐殺が行われました。
杉原のいるリトアニアの日本領事館の前にも大勢のユダヤ人が押しかけていました。
そこで杉原は、5人の代表を選んでもらって、話しを聞くことにしました。
5人がそれぞれ窮状を訴え、ビザの発給を懇願しました。
それを受け、杉原は要件を満たさないユダヤ人避難民にも人道上ビザの発給を
認めるよう外務省に願い出ました。
しかし、同盟国ドイツに対する配慮から認められません。
早くしないとナチスが攻めてきてユダヤ人は殺される可能性が高いことがわかっています。
杉原氏は何日も悩んだ末に独断で発給を決断。
40年7月31日、その日の朝もまだ暗いうちから、ユダヤ人たちが領事館に集まってきていました。
その時の様子を領事館の中にいた妻の幸子さんが次のように回想しています。
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人々はお互いに話すことなく静かにたたずんでいて、
その顔には疲れとあせりの色がはっきりと表れていました。
やがて杉原は、鉄柵のそばに行って、
「みなさまがたに、日本の通過ビザを発行することになりました」
と大きな声で知らせました。
それを聞いたとたん、人々の表情が、まるで電光がはしったときのように、
輝きました。
しばらくは、しーんとしたままでしたが、それから、大きなどよめきがおこりました。
だれかれとなく、抱き合ってキスしあう人たち。
天に向かって手を広げ、神様に感謝の祈りを捧げる人。
小さな子供をだきあげて、ほおずりするお母さん・・・。
窓のこちらから見ている私にも人々の喜びが伝わってきました。
「よかった・・・ほんとに、よかった・・・・」
わたしは、しみじみ、そうつぶやきました。
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杉原は、順番待ちの人に対して、1人1人の名前を手書きし、
いろいろな励ましの言葉をかけながら、
ビザを出していきました。
すぐに、日本の外務省からは、「領事館退去命令」が出されました。
本来であれば、すぐに仕事を打ち切って、国外に出なくてはならないのですが、
杉原は、ビザの発給をやめません。
朝早くから夜遅くまで、昼食も食べにひたすら「命を救う」作業を
行っていました。
出国直前までの約1カ月間、発給を続けました。
そして9月1日、杉原一家はベルリン行きの国際列車に乗り込みました。
駅には、たくさんのユダヤ人たちが見送りに来ていました。
ビザの発行を受けた人たちや、まだもらっていないので、急いで書いて欲しい
と頼む人たちです。
汽車に乗り込んでからも、杉原は発車までの短い時間を使って、
つぎつぎと許可証を書いて手渡ししました。
とうとう出発の時間になり、
「ゆるしてください、みなさん。わたしには、もうこれ以上、書くことができません。
みなさんのご無事を祈っています。」
そう言いながら窓の外の人たちに、ふかぶかとおじぎをしました。
汽車がゆっくりと走り出します。
「ありがとう、スギハラ!」
「スギハラ、私たちは、あなたを一生忘れない。もう一度、あなたにお会いしますよ!」
汽車とならんで、泣きながら走ってきた人が、私たちが走り去るまで、
何度もそう叫び続けていました。
杉原はその後、チェコ、ルーマニアなどで勤務し、1946年に帰国。
翌年、外務省を退職しました。
訓令違反のビザ発給を理由に退職に追い込まれたとの思いから、
退職後は外務省関係者との交流を断ちました。
1968年、突然イスラエル大使館から杉原の元に電話がありました。
「ぜひ来て欲しい」
とのこと。
行ってみると、ニシュリというイスラエル大使館の参事官になった人が、
待っていました。
ニシュリさんは杉原に会うと、いきなり紙切れを見せて、
これを憶えていますかと聞いてきました。
ニシュリさんの手には、1枚のボロボロになった紙が、
握られていました。
それは杉原が昔書いたビザでした。
そうです、
彼は、まさに杉原がリトアニアで発給したビザによって助かった人でした。
ニシュリさんは、それを、今でも大切に持っていたのです。
ニシュリさんによると、杉原の発給したビザによって、無事にアメリカへ渡ったユダヤ人たちは、戦後もずっと、杉原のゆくえを、探し続けていたそうです。
翌1969年、杉原はイスラエル政府から招待されました。
イスラエルでは、バルハフティック宗教大臣が出迎えました。
大臣は杉原を見るなり、こういいました。
「覚えていらっしゃいますが。わたしは、リトアニアの領事館で、
あなたと話し合ったリーダーのひとりでした。」
「あのときの・・・」
杉原は驚いて、しばらく何も言葉がでなかったといいます。
「命のビザ」のエピソードが知られるようになったのは、
この時にイスラエル政府が杉原に勲章を授けてからです。
杉原は常々「当然のことをしたまで」と、自らが語ることはありませんでした。
1985年1月にはイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」として表彰され、
91年にはリトアニアの首都にある通りの一つに「スギハラ通り」と名前が付けられました。
1985年に賞が贈られたことから、初めて杉原の功績は世界的に知られるようになりました。
しかし、杉原はその翌年の1986年7月31日、病気のため亡くなりました。
命日はくしくも46年前に、ビザの発行を開始したその日でした。
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参考;
「杉原千畝物語」(杉原幸子、杉原弘樹著・フォア文庫)
「世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰」(波田野毅著・ごま書房新社)
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D-188862