心温まる感動ストーリーを通じて感動を科学する! -7ページ目

心温まる感動ストーリーを通じて感動を科学する!

心温まる感動ストーリーや感動研究を通じて、元気や勇気、生きる喜びを高めて欲しい!!(社)日本WEBライティング協会公認ブログです。


杉原千畝はイスラエルから英雄として讃えられています。


杉原は、第二次世界大戦中のリトアニアで、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人に対して、
日本政府の命令に背いて日本通過ビザを発給し、約6千人もの命を救ったとされる外交官。


自らの工場で働くユダヤ人を救ったことで知られるドイツ人実業家、オスカー・シンドラーになぞらえて、「日本のシンドラー」とも呼ばれています。


杉原は、外務省の官費留学生として満州(現・中国東北部)のハルビンでロシア語を学んだ後、同省に採用されます。
満州、フィンランドなどでの勤務を経て、39年にリトアニアの日本領事館に領事代理として赴任しました。


1940年夏。


ポーランドを追われてきた大勢のユダヤ人避難民が、ソ連・日本を経由して第三国に移住しようと日本通過ビザを求めてきました。


当時、ナチス・ドイツに占領されたポーランドでは、
ユダヤ人狩りが行われており、その後アウシュビッツなどで
ホロコーストによる大量虐殺が行われました。


杉原のいるリトアニアの日本領事館の前にも大勢のユダヤ人が押しかけていました。


そこで杉原は、5人の代表を選んでもらって、話しを聞くことにしました。


5人がそれぞれ窮状を訴え、ビザの発給を懇願しました。



それを受け、杉原は要件を満たさないユダヤ人避難民にも人道上ビザの発給を
認めるよう外務省に願い出ました。


しかし、同盟国ドイツに対する配慮から認められません。


早くしないとナチスが攻めてきてユダヤ人は殺される可能性が高いことがわかっています。




杉原氏は何日も悩んだ末に独断で発給を決断。


40年7月31日、その日の朝もまだ暗いうちから、ユダヤ人たちが領事館に集まってきていました。


その時の様子を領事館の中にいた妻の幸子さんが次のように回想しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

人々はお互いに話すことなく静かにたたずんでいて、
その顔には疲れとあせりの色がはっきりと表れていました。


やがて杉原は、鉄柵のそばに行って、
「みなさまがたに、日本の通過ビザを発行することになりました」
と大きな声で知らせました。

それを聞いたとたん、人々の表情が、まるで電光がはしったときのように、
輝きました。

しばらくは、しーんとしたままでしたが、それから、大きなどよめきがおこりました。

だれかれとなく、抱き合ってキスしあう人たち。
天に向かって手を広げ、神様に感謝の祈りを捧げる人。
小さな子供をだきあげて、ほおずりするお母さん・・・。

窓のこちらから見ている私にも人々の喜びが伝わってきました。
「よかった・・・ほんとに、よかった・・・・」
わたしは、しみじみ、そうつぶやきました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


杉原は、順番待ちの人に対して、1人1人の名前を手書きし、
いろいろな励ましの言葉をかけながら、
ビザを出していきました。


すぐに、日本の外務省からは、「領事館退去命令」が出されました。


本来であれば、すぐに仕事を打ち切って、国外に出なくてはならないのですが、
杉原は、ビザの発給をやめません。


朝早くから夜遅くまで、昼食も食べにひたすら「命を救う」作業を
行っていました。


出国直前までの約1カ月間、発給を続けました。


そして9月1日、杉原一家はベルリン行きの国際列車に乗り込みました。


駅には、たくさんのユダヤ人たちが見送りに来ていました。
ビザの発行を受けた人たちや、まだもらっていないので、急いで書いて欲しい
と頼む人たちです。


汽車に乗り込んでからも、杉原は発車までの短い時間を使って、
つぎつぎと許可証を書いて手渡ししました。


とうとう出発の時間になり、

「ゆるしてください、みなさん。わたしには、もうこれ以上、書くことができません。
みなさんのご無事を祈っています。」

そう言いながら窓の外の人たちに、ふかぶかとおじぎをしました。


汽車がゆっくりと走り出します。


「ありがとう、スギハラ!」

「スギハラ、私たちは、あなたを一生忘れない。もう一度、あなたにお会いしますよ!」

汽車とならんで、泣きながら走ってきた人が、私たちが走り去るまで、
何度もそう叫び続けていました。



杉原はその後、チェコ、ルーマニアなどで勤務し、1946年に帰国。
翌年、外務省を退職しました。


訓令違反のビザ発給を理由に退職に追い込まれたとの思いから、
退職後は外務省関係者との交流を断ちました。



1968年、突然イスラエル大使館から杉原の元に電話がありました。

「ぜひ来て欲しい」

とのこと。

行ってみると、ニシュリというイスラエル大使館の参事官になった人が、
待っていました。


ニシュリさんは杉原に会うと、いきなり紙切れを見せて、
これを憶えていますかと聞いてきました。


ニシュリさんの手には、1枚のボロボロになった紙が、
握られていました。


それは杉原が昔書いたビザでした。

そうです、

彼は、まさに杉原がリトアニアで発給したビザによって助かった人でした。

ニシュリさんは、それを、今でも大切に持っていたのです。

ニシュリさんによると、杉原の発給したビザによって、無事にアメリカへ渡ったユダヤ人たちは、戦後もずっと、杉原のゆくえを、探し続けていたそうです。





翌1969年、杉原はイスラエル政府から招待されました。


イスラエルでは、バルハフティック宗教大臣が出迎えました。


大臣は杉原を見るなり、こういいました。

「覚えていらっしゃいますが。わたしは、リトアニアの領事館で、
あなたと話し合ったリーダーのひとりでした。」


「あのときの・・・」

杉原は驚いて、しばらく何も言葉がでなかったといいます。



「命のビザ」のエピソードが知られるようになったのは、
この時にイスラエル政府が杉原に勲章を授けてからです。


杉原は常々「当然のことをしたまで」と、自らが語ることはありませんでした。


1985年1月にはイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」として表彰され、
91年にはリトアニアの首都にある通りの一つに「スギハラ通り」と名前が付けられました。



1985年に賞が贈られたことから、初めて杉原の功績は世界的に知られるようになりました。


しかし、杉原はその翌年の1986年7月31日、病気のため亡くなりました。


命日はくしくも46年前に、ビザの発行を開始したその日でした。





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参考;
「杉原千畝物語」(杉原幸子、杉原弘樹著・フォア文庫)
「世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰」(波田野毅著・ごま書房新社)
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D-188862

『べこべこの預金通帳』 (福岡県:佐藤健様)


お久しぶりです。三年ぶりですね。
すいません。いきなり見せたい物があるなんて電話しちゃって。
いえとんでもないです。あの時会社クビになったのは自業自得ですって。
だって同棲してた彼女に暴力三昧で警察沙汰ですから、クビで当然でしょ。
自分が悪いんです。それどころか感謝してますよ。
ほら会社クビになった日、俺に言ってくれましたよね。
なんでお前親しい人に暴力ふるっちゃうんだって。
お前きっと心の中に暗い水溜りみたいのがあるぞって。
それ掃除しないと一生こんな事繰り返すぞって。あの言葉妙に心に残ってね。
あれからずっと考えてたんですよ。
それで判ったんです。その水溜りってね、きっと母ちゃんの事だったんです。

俺の母ちゃんね、7つの時に他に男つくってでていったんです。
それまでは俺一人っ子だったし母ちゃんもすごく可愛がってくれてた。
でね、あれ夏休みの時かなあ。ある日2階の自分の部屋で寝てたら何故か目が覚めた。
なんせ小学1年ですからね。普通なら夜中に目覚めませんよ。
でもなんか玄関で音がする。
見に行ったら母ちゃんが大きなかばん持って出て行こうとしてる。びっくりしました。
どこ行くの。俺も連れてってよって思いました。
なんか二度と会えないような気がして母ちゃんの背中に叫びました。
母ちゃん俺の声で一瞬脚がとまりました。でも振り帰らず、そのままいっちゃった。
それが最期です。親父は家で酒飲んで泣いてる。
母ちゃんどこ行ったのって聞いてもただ泣いてる。
それからですね。俺ぐれちゃって、この有様です。

それ以来ね。俺怖くなったんです。大事な人が居なくなるのが。
俺から離れていっちゃうのが。ほら俺が付き合ってたあの女の子いたでしょ。
あの子も本当にいい子だったんです。忘年会の後、付き合うようになって。
おれの事理解してくれて。ぐれてた事や一人ぼっちの俺にも同情してくれて。大丈夫だよって。
ずっと一緒にいてあげるよって言ってくれてたんです。
でもその内、本当かって思っちゃうんです。お前も俺から逃げるんじゃないかって。
だから確かめたくて酷い事しちゃうんです。
こんな酷い事する俺でもいいのか。裏切らないかってね。どんどんエスカレートする。
そして最期は相手もいやになって逃げていく。この繰り返しだったんだって。
女の子にも昔の親友にも俺似たような事してたんだって。

それが先月ね。連絡があったんです。鳥取の弁護士からです。母ちゃんが死んだって。
遺産の一部渡したいから鳥取に来いって。
行きましたよ。遺産て言っても大したもんじゃありません。数十万です。
でもね。俺それもらって判ったんです。
それ確かに金額にして数十万ですけど、預金通用だったんです。
母ちゃんが出てってから俺の為に預金してくれてたんです。俺名義で。
変なんですよこの通帳。妙にべこべこしてるでしょ。
で中見たら入金の額が凄いんです。ほらばらばらでしょ。982円。126円、459円・・。
これなんですかって聞きました。
先方の親族皆知らん顔ですけど、一人だけ母ちゃんと親しくしてたおばさんがいて帰りに教えてくれました。
あんたの母さん苦労したんだよって。こっちの姑とも折り合い悪くてお金のことも苦労してた。
でもずっとあんたのこと言ってたよって。
ごめんね、ごめんねって一人で手合わせて泣いてたって。
それでせめてもの罪滅ぼしにいつかこれだけは渡してやりたいってこっそり俺名義の預金通帳つくって。
でも自由になるお金無いから小銭集めては入金してたって。
1円でも多く渡してやるんだって。
それ聞いてね、その半端な入金額みたら、俺急に泣きそうになっちゃった。
でも我慢してたんですよ、最初は。泣かねえぞ。こんな事で許したりしねえぞって。
ここで泣いたら俺の今までの人生なんだったんだってことですよ。
でもね、油断したらふっと一粒涙が落ちちゃった。
それが預金通帳に上に落ちちゃったんです。それで又一つわかっちゃった。
ああだからこの通帳こんなにべこべこしてるんだって。
そしたらね、俺もう涙が止まんなくなっちゃった。本当、子供の時みたいに泣いちゃった。
鳥取から博多までずっと電車の中で泣いてました。

俺の中の暗い水たまりが枯れるまで泣きましたよ。だからね、俺もう大丈夫です。
この通帳さえあればもう絶対大丈夫だって思うんです。
それでね、今日はあの時のお礼にこの通帳是非見て欲しかったんです。
これです。ね、変でしょ。




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【 受賞に寄せて 】


御礼   佐藤健

この話は、20年前に私がKという乱暴者の後輩から聞いた話をもとに書いたものです。
当時はK君に何もしてあげられませんでしたが、
“べこべこの通帳”を嬉しそうに見せに来た彼の姿は今でも時々思い出します。

その後K君とは疎遠になり、今ではどこで何をしているのかもわかりません。
死んだとか刑務所に入ったとかいう話も聞きませんので多分元気にやってくれてるんだろうと思います。

どこかでこの話をK君も読んでくれてたら嬉しいです。
その場面を想像するだけで嬉しいです。

そしてこの話をネットを通して見知らぬ誰かに読んで頂けると思うととても嬉しいです。

素敵な賞を頂きありがとうございました。

この賞を頂き、ネットの文章を通して“疎遠になった友人”とも、
“見知らぬ大勢の方”ともつながっていけるということに、あらためて気づかせて頂きました。





佐藤健様、素敵な作品と受賞のご感想をお寄せいただき、

ありがとうございました!

その才能と志をもって多方面でご活躍いただきたく、

ご健勝をお祈り申し上げます。







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『二頭の恐竜』 (宮城県:ときあ様)

恐竜なんていない、と思いますか?私は、息子のりくと二頭の恐竜に出会いました。

きっかけは、この夢です。

荒れる海の砂浜で拾った化石が風で岩場にぶつかって砕け、
中の油臭いタネが津波をかぶり太陽のように熱く光り…。
タネは二つに割れ、小さな木目模様の恐竜が孵りました!

翌日夢に詳しい考古学者の友人が、
「見ろよ、これが化石から孵った『燃料のタネ』だ。
お前が夢で見たのは、これか…?
これを与えれば、どんな植物でも動く、という言い伝えがある」

もう使わないから、と夢そっくりの木目模様のタネを二粒もくれました。
(これなら、もしかするとあの木を…)
「でもタネを与えても、その植物が実際に動くにはきっかけがいるらしいぞ!」
と彼は、帰る私の背に強く念を押します。

帰宅すると、りくはやはりあの木のそば。

実はこの木、私が高校生まで川の水で育っていた。
…が…嵐で倒れかけた時、そばのツルやツタが木にからまり、恐竜の形に。
その後私は余計この木が気になり、見守ってはいたが…。
なぜかそれだけで心は満たされ、やがて木の御利益か無事に家族を持てました。

木に思わぬ反応を見せたのが、りくです。
親子で会いに行くうちに、りくはこの木を、『木の恐竜』と名づけました。
りくが木の恐竜に登れない時、木の恐竜は太い枝でお尻を押しコツを教えます。
りくも木の恐竜の枝が折れると、健気に枝がくっつくようにと添え木をあてます。
やがてりくは木の恐竜と共に動きたい、と思うように。でも…。

「今日も木の恐竜に話しかけても、やっぱり動いてくれないよ、パパ…?」
と、最近は特に寂しげ…。
私は木の恐竜に『燃料のタネ』を一粒根元に与え、(りくと動いて!)とあの日まで念じ続けました。

「もうすぐ、おやつの時間だ」
と、りくと通学路を帰る終業式のあの日。

ゴ…ゴ…ゴ…と、小刻みに地面が揺れていく…(また、地震か…)
でもその地震は収まるどころか、大きな洗濯機で地面をかき回すように激しく揺れていく…!

空が灰色に濁り、ザ…ッパアーン!と海から津波が恐竜のように現れ…
テトラポッドと灯台を押し流し…堤防を一足飛びで越え…市場やビルを押し崩し…
ぐんぐんせまります!
さっきまでいた通学路は、津波の恐竜がのっしのっしと踏み荒らした津波の爪あとで、
たちまち黒く濁り変わり果てていきます…。

「…ダメだ、捕まる…!」

津波の恐竜が私とりくの足が喰いかけた時…津波でもがく足に、
何かがゴツン!とぶつかりました。(動いてるのは…木の恐竜?)

「やったあ!パパ、木の恐竜が動いてる!」

(なぜ?…
そうか!あの夢の一つめの意味の『このタネこそ、私たちを新しい世界へ導く鍵になる』とは、
『燃料のタネ』はこういうピンチの時のみ木の恐竜の運動神経として初めて成長し、
動くための燃料になってくれるのか!)
と、友人の言葉の『タネが動くきっかけ』がわかりました。
木の恐竜へ熱い何かが、初めて私の胸へこみあげてきます。

「木の恐竜、流されないよう気をつけて…」

「パパ…りく、私の背に乗れ!」

そう話す木の恐竜の足とお腹は…黒い波が牙となった津波の恐竜が噛み付き、
ツルやツタをベリベリとひきはがしていきます…。

「このままじゃ、バラバラに…」

私とりくが木の恐竜から津波の恐竜の牙をどかそうとかきわけようやく波の牙が離れると…。
今度は津波の恐竜が津波でぐおーっとこちらへ襲わせた車を、…ドシ!と、体で受け止める木の恐竜。

「ありがとう…でも、君の体が…」

「…体がバラバラになる前に、パパとりくはあの高台へ…私は、津波の恐竜を鎮める…」

木の恐竜の体は、あと二本きりなのに…。

「二人とも…またな…」

木の恐竜は、私とりくの乗る背中の木を切り離し、
トン…と高台へ優しく押すと…津波の恐竜に飲み込まれ…。
と、津波の恐竜は大波小波を何度も打ち苦しそうに暴れ…元の海に戻り、
震災は収まりました。
私とりくは、無事高台へ着きました。

「ありがと…でも君に助けられてばかり…」

すると私のポケットのあのタネが割れ、

「ぴい!」

と、木の恐竜そっくりの雛が孵ったのです!
あの夢の二つめの意味が、これでした!雛の足の根が木鉢に埋まり、
…う~ん…とつぼみをつけようとする姿に、
あの時木の恐竜へこみあげた熱い何かを再び感じたのです。

「りく…きっと木の恐竜は、この雛の子として生まれ変わってくるよ。
ボクらは立ち上がり、その日まで育てるぞ!」

と、りくとその手を握り合いました。

-完-




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『教え子』 (埼玉県:越智由季子様)


その青年S君と会ったのは、今から13年ほど前の、
2学期が始まったばかりの9月のことでした。
私は、大学在学中からずっと塾講師、家庭教師を務めています。
ただ、家庭もあり子どももいるため、正社員ではなく、条件に合った職場を移動していました。
その年は夏休みに、小学校低学年の指導を行って、やはりもう少し大きい子を教えたい、
できれば受験指導をしたいと思い、新しい職場を探していました。

首都圏に何十教室もある大手進学塾の地元教室で、とんとん拍子に話が進み、
9月の新学期から、いくつかのクラスを担当することになりました。
あとで、採用事情を知るにつけ、「縁があった」としか思えないできごとでした。

経験豊富ということで、研修もなくいきなり教壇に立つことになり、
まかされたクラスの中の一つ、中2の最上位クラスにS君はいました。
このクラスは、S君初め、大変優秀な生徒が多い学年で、
首都圏に当時50以上もあった校舎の中でもトップクラスということでした。
とてもやりがいがあるクラスでもあり、また別の意味で思い入れのある学年でもありました。
それは、私の一人娘と同じ学年だったことです。
但し、娘は当時は彼らと全く違った進路を目指しており、
勉強よりも芸術方面のレッスンに重きを置いていました。
それでも、同い年ということで、彼らには格別の親近感もあり、
彼ら自身も違和感なく受け入れてくれました。

私の指導は、時には厳しく、時にはユーモアも交えて行います。
それについてこられる生徒には、この上なく楽しく役に立つものだと思います。
その中で、S君はムードメーカーであり、いじられ役でもありました。
ついやりすぎてしまい、受験生になってからはナーバスになっている彼を刺激して、
怒らせてしまったこともあります。
それでも、お母さまはクレームを寄せるではなく、逆に息子さんを
「先生は、あなたをとくに親しく思っているから他の子よりいじるのよ」となだめてくださいました。
ありがたいとしか言いようがありませんでした。

指導から半年、彼らは受験を迎えました。
期待通り、全校舎1の実績を挙げ、私たち担当講師に喜びと誇りをくれました。
いわゆる「御三家」と呼ばれる超難関校にS君を含む3人が合格しました。
しかし、S君はそこに進学せず、大学付属校への道を選んだのです。
もっとも、その大学も日本の私学では双璧と言われるところの一つですが。

高校に進学してからも、S君からはたまにメールで相談などがありました。
会うことはありませんでしたが、娘ともメール交換はしていたようで、
近況などは知るところでありました。
そんなS君と、思わぬことで新たな縁ができることになりました。
全く別の進路を選んでいたはずの娘が、S君と同じ大学に進学することになったのです。

そして大学の入学式の日です。娘の高校は特殊なところ(別の大学の付属)のため、
同じ大学に進学する人はいません。
小中学校の同級生でお母様とも知り合いであるお子さんは、何人かこちらに入学されるようですが、
マンモス大学のため、学部ごとに式の時間が違います。
S君の学部は、娘の学部とは違いますが、ともに第一部。
S君に、「お母様とご一緒していいかしら?」と聞いてもらったところ、快諾してくれました。
当日は大学の最寄の駅からすごい混雑、バスを降りるとめまいがするほどでした。
S君のお母様と無事式典を見ることができ、
あらかじめ約束しておいた店で子ども達とも合流することができました。
そして別行動でいらしていたお父様にもご挨拶しました。

その後、娘とはたまに学内ですれ違ったり、
共通の友人ができたり(S君は付属校ですから、同級生も多いのです)
以前とは違った形の交流が始まりました。
お互いに家が同じ市内のため、誘って一緒に食事をしたことも、
我が家に遊びに来たこともあります。
畑違いの高校からたった一人でその大学に進んだ娘に、
いろいろ情報をくれることもあったようです。

そして卒業式。娘はストレートに卒業し、民間企業に就職も決まっていました。
しかし、S君は資格試験のために半期留年するということでした。
女の子の親として、卒業式は荷物持ちやらなんやらでてんてこまいです。
卒業写真の順番取りもしなくてはなりません。
S君に、大学隣接のホテルでのランチを条件に、
荷物持ちなどのお手伝いをしてもらうことにしました。

結局S君は超難関である資格取得を断念、地元の公務員として就職することになりました。
職場は、私の自宅の最寄り駅でもあり、街でばったり会ったこともあります。
誘って食事をご馳走したこともあります。
いつ会っても、礼儀正しい好青年でした。

S君の家は、大宮から1つ北の駅です。
私は都内ならともかく、大宮以北にはめったにいかないのですが、
たまたま、その駅に行く用事があり、終了が20時くらいの予定だったため、
S君に「夕飯でも食べない?」と声をかけてみました。
喜んで!ということで、楽しみにしていました。
そして、当日。
会うなり「先生、何がお好きですか?今日は僕にご馳走させてください」と言ってくれるのです。
大人として、まだ若い子にご馳走になるなんてとんでもないとは思いましたが、
真剣な彼の顔を見て、その日は甘えることにしました。
もちろん、あまり負担にならないような店を選びはしましたが。
電車の都合があるので、長時間は同席できませんでしたが、
昔の話、今の話、話が弾んであっという間でした。
私が「浦和駅からの便があるから、22時には帰るね」と言ったら
「ここからタクシーで帰ってください。自分が出しますから」とまで言うのです。
さすがにそこまでは甘えられませんが、その気持ちがとても嬉しかったです。

帰りの電車の中で電車「ご馳走様、本当は私が奢らなければならない立場だけど、
今日は厚意に甘えますね」とメールを送ったところ、以下の返事が返ってきました。
「自分が今あるのは先生のおかげですので、恩返しするのは当然です。
大したお構いもできず、申し訳ありませんでした。
今度はもっといいお店でご馳走することを目標に日々の仕事をがんばります」

号泣です。メールを開けたのが自宅でよかったです。
一人暮らしの私は、 たまらなく淋しくなる夜もあるけれど、私には宝物がたくさんある。
ダイヤモンドより輝く宝石、それは教え子たちの存在。

この仕事を選んで、本当によかったです。
ほんの一時関わっただけの私に、
こんな素晴らしい言葉のプレゼントをくれたS君に心から感謝するとともに、
幸せな人生を送ることを願ってやみません。




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『今日も夢の一日』 (福岡県:匿名希望)


俊くん
きみの話を聞いたのは、もう十年位前になるでしょうか。
その頃おばちゃんは心を患っていて、毎日どうやって死のうかとずっと考えていました。
踏切の遮断機の前で、高いビルの非常階段を見上げて、台所で包丁を握っている時も。
けれど、誰にも迷惑のかからない方法なんて見つからないし、
この気持ちが少しでも楽になるなら、
って友達に衛藤先生の講座のことを教えてもらって参加したんだ。
そして、そこできみに出会ったのです。
小児がんの病棟は、昼間はとっても明るいんだってね。
きみたちが希望を見失わないようにパパやママ、お医者さんや看護師さん、
みんなが心を奮い立たせて笑顔でいるって聞いたよ。そしてきみたちも。
でも毎日の笑い声の隙間から少しずつ近寄ってくる不安な気持ちがあったよね。
おかしいな、へんだなって思ったよね。病室から鏡がなくなって、
日が暮れる頃になるとすぐにカーテンが閉められちゃうから。
お薬が効かなくなって大きくなったがんが、きみの顔を変えてしまったんだ。
きみが鏡や窓に映る自分の顔をみてびっくりしないように、みんなで考えて。
賢いきみは、どうしても確かめられずにはいられなかった。
事情を知らない新人の看護師さんのポケットに入っていたキティちゃんの手鏡を借りて覗きこんだんだ。
「……もうすぐママが売店から僕のジュースを買って帰って来るの。僕が鏡を見たのはナイショね」
「どうして」
「ママが悲しむから」
きみは静かにその絶望や恐怖をのみこんで大人たちの懸命な嘘を守ろうとした、
とっても優しくて強い子だった。
でも一度、一度だけ「僕は大人になれるの」って泣いたことがあったって。
俊くん、きみは逝ってしまったけど、きみのこの話は講座を受けていた皆の心に残りました。
おばちゃんは自分がはずかしくて仕方なかったよ。
パパのような大人になりたいと強く願ったきみ。
死んでしまいたいと思うほどの辛さや悩みさえ、俊くんにとっては経験したかったことなんだ。
おばちゃんは、きみが生きたかった夢の一日を生きているんだって。
その晩、おばちゃんはきみの夢を見ました。
「おばちゃん」
とたった一言だったけど、おばちゃんは確かにきみが呼びかけてくれた声を聞いて、
泣きながら目を覚ましました。

-完-



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