武士道をつらぬいた「大空のサムライ」
戦地にあって、敵を見かけたら撃ちまくる
そんな光景を数多く見聞きしてきました。実際に、その場に自分がいたとしたら、どれほどの恐怖と緊張感に満ち満ちていることでしょう。人影を見、気配を感じただけでも、自分の死を身近に感じ、敵、味方もわからずにただ、生きるために撃ち出てしまうのが本能というものではないでしょうか。
しかし、「大空のサムライ」と言われる旧日本海軍中尉 坂井三郎は違ったのです。
坂井は「撃墜王」と呼ばれるにふさわしい人物でした。零戦での出動回数は200回を超え、64機の敵機を撃墜した記録を持つほどのスゴ腕の持ち主です。
1942年、太平洋戦争がはじまってすぐの事でした。敵基地を侵攻するために出動していた坂井は、オランダ軍の1機の大型輸送機を見つけました。
日本軍からは「たとえ、民間機といえども、軍の重要人物が載っているかもしれない。敵機が飛行していたならば、捕獲、またはすべて残らず撃墜せよ」との命令がでていました。
坂井はその大型輸送機に近づき、敵軍の重要人物が中にいないか窓からのぞき込みました、すると、太陽の光に照らされて彼の目に飛び込んできたのは、彼の機体におびえ震える女性や子供の姿でした。
彼はその姿を確かめると、「逃がそう」と決断しました。当時の軍の命令は絶対死守すべきものだったことはご存知の通りです。それにそむくと言うことは、決して許されない時代。
しかし、彼は輸送機に乗っていた女性や子供に手を振ると戦機をひるがえして、空の中へと消えて行きました。彼は、立派な日本海軍であり、武士道を心に秘めたサムライだったのです。
基地へ戻り彼は、飛行中に敵と思われるものには出会えなかったと軍へ報告しました。そして、ずっと彼の心の中にとどめ隠しもっていたのです。
しかし、戦後、ある一人のオランダの看護婦が、坂井の著書を偶然目にし、零戦に描かれたマークから坂井があの時、見逃してくれたパイロットだと知りました。彼女は坂井が見逃したあの輸送機に乗っていたひとりだったのです。
看護婦は国際赤十字を通じて坂井を探しあて、戦後50年たち、彼女は坂井に会うことができました。坂井の手を握りしめ、あの時輸送機に乗り合わせたみんなの感謝の気持ちを涙を流しながら伝えたそうです。
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タイトルからおわかりのように、ストレスを抱えた次のような人のために編集しました。
●人間関係に悩んでいる
●もうダメと諦めかけている
●やる気がさっぱり出てこない
●自己嫌悪に陥っている
●生きる目的を見失っている
感動ストーリー短編集を中心に編集してあるので、
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凍える夜、小雪がちらつく北海道の塩狩峠で、その壮絶な事故は起きてしまいました。
それは明治42年2月28日のこと。
峠の急こう配にさしかかった列車の最後尾の客車をつないでいた連結が突然外れました。
一瞬停止したように見せかけ、前を走りさる列車とは逆の方向に、取り残された客車は峠の急こう配の坂を転がるように、グングンスピードをあげて下っていきます。
このままいけば、必ず脱線し転覆する!
乗客たちはこれから起こるだろう悲惨な地獄絵図を思い浮かべ悲鳴の渦が巻き起こります。
しかし、その中で一人、冷静に事態を見据え動きだした人物がいました。
鉄道職員でありクリスチャンでもある長野政雄氏です。
彼はこの時、偶然乗客として乗り合わせていました。
鉄道の知識のある彼はとっさにデッキに飛び出し、客車に備え付けられているハンドブレーキを引きました。
ブレーキ音が鳴り、少しずつスピードは和らいだように見えました。
しかし、塩狩峠の勾配はなまやさしいものではありません。
客車は止まることなく動きつづけ、行く先に待ち構えている急こう配にさしかかれば、再びスピードを上げ乗客たちを死の淵へと導いていくことでしょう。
「どうすれば助かるのか」さまざまな考えが頭をよぎり、彼は決意します。長野氏は一瞬、恐怖に震える乗客たちの方に振り向き、うなずくとためらうことなく線路に飛び込みました。
ガコンッという衝撃と共に、客車はようやく停止。
何事かと、客車から降りた人々が目にしたのは、客車の車輪の下に横たわっている長野氏の血だらけになった姿でした。
そうです、彼は自らの身体を投げ出して、車輪の歯止めとなり、客車の暴走をくい止めたのです。彼の壮絶な姿を見て感謝と共に深く強く心を動かされ涙を流さない者はいませんでした。
それはまるで、全ての人々のために身を投げ出したイエス・キリストの尊貴な姿と重なります。
長野政雄氏が客車から飛び落ちたのはもしかして事故だったのではないか?
いいえ、彼の懐から遺書が見つかりました。それは世を捨てる意味の遺書ではなく、「いつでも、神と隣人のために命をささげる」という決意を書き記した遺書だったのです。
「人は人のために死ねるか」
愛する家族のためなら出来るという人も中にはいるかもしれません。
きっと、キリストの教え通り、彼にとってはこの世の命あるもの全てが愛すべきものだったのでしょう。彼の深遠なる清らかな愛に感謝します。
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参考:http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nagano.htm
それは明治42年2月28日のこと。
峠の急こう配にさしかかった列車の最後尾の客車をつないでいた連結が突然外れました。
一瞬停止したように見せかけ、前を走りさる列車とは逆の方向に、取り残された客車は峠の急こう配の坂を転がるように、グングンスピードをあげて下っていきます。
このままいけば、必ず脱線し転覆する!
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しかし、その中で一人、冷静に事態を見据え動きだした人物がいました。
鉄道職員でありクリスチャンでもある長野政雄氏です。
彼はこの時、偶然乗客として乗り合わせていました。
鉄道の知識のある彼はとっさにデッキに飛び出し、客車に備え付けられているハンドブレーキを引きました。
ブレーキ音が鳴り、少しずつスピードは和らいだように見えました。
しかし、塩狩峠の勾配はなまやさしいものではありません。
客車は止まることなく動きつづけ、行く先に待ち構えている急こう配にさしかかれば、再びスピードを上げ乗客たちを死の淵へと導いていくことでしょう。
「どうすれば助かるのか」さまざまな考えが頭をよぎり、彼は決意します。長野氏は一瞬、恐怖に震える乗客たちの方に振り向き、うなずくとためらうことなく線路に飛び込みました。
ガコンッという衝撃と共に、客車はようやく停止。
何事かと、客車から降りた人々が目にしたのは、客車の車輪の下に横たわっている長野氏の血だらけになった姿でした。
そうです、彼は自らの身体を投げ出して、車輪の歯止めとなり、客車の暴走をくい止めたのです。彼の壮絶な姿を見て感謝と共に深く強く心を動かされ涙を流さない者はいませんでした。
それはまるで、全ての人々のために身を投げ出したイエス・キリストの尊貴な姿と重なります。
長野政雄氏が客車から飛び落ちたのはもしかして事故だったのではないか?
いいえ、彼の懐から遺書が見つかりました。それは世を捨てる意味の遺書ではなく、「いつでも、神と隣人のために命をささげる」という決意を書き記した遺書だったのです。
「人は人のために死ねるか」
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もし、生まれつきあなたに手も足もないとしたら?
そして、そんな身体なのに、転んでしまったとしたら、あなたは起き上がることができると思いますか?
「そんなの出来るわけがないよ」ほとんどの方はそう思うことでしょう。
しかし、彼は、頭を本の上に置き、腰を徐々に頭に近付けよじり、身体を曲げたかとおもうと、しなやかにヒョイと起き上がったのです。
1982年、オーストラリアで産まれたニック・ブイチチには、手足がありませんでした。先天性四肢欠損症という障害を持っての誕生です。左腿にわずかな足先に似ている肉塊がちょっと付いています。
出産の時、立ち合っていた父親は気を失いそうになりました。
母親は、4か月間授乳をする気力もないくらいに悩み苦しみうちひしがれてしまったそうです。
ニック・ブイチチは8歳の時に、自分の将来が見えてきたと言います。
自分には手もない、足もない。
それから先、結婚もできないだろう。
仕事もない、自分の人生にはまったく意味がないと思いだします。
両親は障害者の学校ではなく、ニックには普通の学校に通ってほしいと望みました。
彼は障害者でありながら普通の学校に通いだしたオーストラリアで初めての子供になりました。
しかし待ち受けていたのは惨憺たる学校生活。
繰り返しいじめにも合います。
おまえは生きている価値のない人間だと言う悪意のこもった言葉を浴びせられます。
自分には何もできないことは家の中でもひしひしと感じていました。
食事も着替えもすべて親がいなくちゃ生きていけない。
希望が全くない!
10歳の時に、ニックは自分の命を閉じようと試みます。
わずか4インチの深さの水があれば溺れて死ぬことができる。
バスタブにはられた水。
しかし、その時に思い浮かんだのは両親の姿でした。
「もっとしてあげられることがあったのでは」と、ニック.ブイチチのお墓の前で嘆き悲しむ両親の姿。
ニックは自殺行為を途中で辞めました。
どうして、ニックは自殺を辞めることができたのか。
それは、両親から溢れんばかりの愛を受けて育ってきたからです。
両親に悲しい思いをさせたくなかったからでした。
「私はそのままで美しい」
「両親は僕を愛している」
この二つが無ければ、ニックは今存在しなかったと言い切ります。
ニックは自殺を辞めた後、弟のアローンに、「21歳まで頑張って、弟や妹が成長したら死のう」と思っていることを打ち明けました。
そして、父親の耳にその思っていたことが入ってしまったのです。
寝ているニックの元へ父親は来ました。
そして、ニックの頭を撫でながら、いたわるような優しい声で
「みんなお前の味方だ。すべてうまくいくさ。どんな時でも私たちがついている。安心しなさい」
と語りかけてくれました。
その言葉に癒され、父親が言うからには、それは本当のことなのだと不思議に素直に言葉が心にしみていきます。
両親を信じて希望を持とうと思ったそうです。
そして、友達からも大きなきっかけをもらいます。
「小学校では補助員、家では家族が手伝ってくれるけどそれでいいわけ?恥ずかしくない?」
友達は賢く、本当にニックのことを思い、心配して口からでた言葉だとニックは感じました。それまでは見ないようにしていた部分。
しかし、これからは恐怖心をふり払い何でも自分で挑戦することをその時から始めたのです。
世の中に転ばない人は一人もいません。
彼は100回失敗しても、挑戦し続ける限り可能性はある!といいます。
まず、はじめに挑戦したのはシャワーを一人であびることから。
父親がシャワーの取手を左右にひねるタイプのものからレバータイプに付け替えてくれました。
歯磨き、服の脱ぎ着、次々と課題をクリアしていきます。
それでもずっと、腕があったらよかったのに、足があったらよかったのに、なぜ自分はこんな醜い姿なんだろうと、悩み続けていたニック。
しかし、ある時、自分に今ないものに文句をいい、あきらめるのではなく、自分に今あるものに感謝をして、それを活かす生き方に目覚めるきっかけとなった出来事がありました。
それは、寝たきりの人が他の人の役に立つ生き方をしているという新聞記事を読んだことでした。
この時、自分より大変な状態の人が、それでも人の役に立つ生き方をしているということに体に電気が走るように衝撃を受けたのです。
その時、「自分もこんな生き方がしたい!」と目覚めたのでした。
そして、ニックは学生の頃から講演活動を始めることに・・・・。
ニックは人前に出て講演活動を始めようと決心したとき、彼がしたことは、近くの学校に電話をして、講演のアポイントメントを取ることでした。
ドキドキしながら勇気を振り絞って電話をするニックですが、10校かけても、20校に電話をかけてもOKをもらえませんでした。
30校、40校と電話をかけ続けてもダメ。
普通ならとっくに諦めてしまうのではないでしょうか。
50校かけてもダメ、それでも電話をやめないニックについにチャンスが訪れます。
それは52校目に電話をしたときのこと。
ここで最初のOKをもらうことができたのでした。
しかも、無料ではなく、しっかり50ドルの出演料を取り付けます。
自宅から3時間の道のりですが、お兄さんにお願いしてその学校まで行きます。
期待を膨らませ壇上に上がると、講演を聞くために来ていたのは、たったの10人。
そして、駆け出しのニックに出来たスピーチはたったの5分間だったといいます。
帰りの車で、兄から笑われながら帰り、恥ずかしさのあまり、ぜったいに両親にはこのことを言わないでくれと頼んだほど。
しかし、このことが彼の人生を変えていくのでした。
最初の出演後、その講演に感動したという話が広がり、新たに2校から新しい講演の依頼が舞い込んできたのでした。
そして、講演をするたびに依頼が増え、気がつけば100回以上も講演の予約で埋まっていたのでした。
8歳の頃、結婚できない、仕事もない、何の希望もないと言っていたニック・ブイチチは日本人の女性と出会い結婚。今ではかわいらしいお子さんもいらっしゃいます。
今ではゴルフ、釣り、サーフィン、スイミング・・・すべてこなせるニックがいます。
もちろん、その努力と道のりははるかに想像を超える険しさだったことでしょう。
また、彼はユーモアたっぷりに語ってくれます。「ぼくには手足がないから、関節症もない。皆さんは手足があるから関節症に悩むかもね」と。
そして、既に世界20ヵ国以上で講演会やセミナーを開催。
数限りない人々がニックに励まされ感動の渦が巻き起こっています。
『僕には腕も脚もない。けれど「できること」に感謝すれば、人生に「限界」はない!』
ニックは出会った一人一人の人生に光を注ぎ希望を贈り続けているのです。
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参考;
『それでも僕の人生は「希望」でいっぱい』(ニック・ブイチチ著・三笠書房)
https://www.youtube.com/watch?v=6VNAFCoxFLc
村山聖(さとし)は、幼い頃から病弱で、入退院を繰り返しながらも、
将棋界で東の羽生、西の村山と言われるまでになった天才棋士です。
村山は幼い頃に「ネフローゼ」という重い腎臓の病気にかかりました。
遊びたい盛りに入退院を繰り返し、常に体の安静が必要な
生活に対して、自暴自棄になった時期があったといいます。
それを救ったのが、村山の父が勧めた将棋でした。
村山が6歳の頃です。
すぐに夢中になり、病室で1日中、
将棋盤や本に向き合うようになりました。
5年間を過ごした療養所を出た小学6年の頃には、
誰もが一目を置く存在になっていました。
14歳でプロへの登竜門、奨励会に入会。
村山は森信雄4段の元に弟子入りし、同居を始めました。
森と村山の関係は通常の師弟関係ではなく、
親子のような関係に近かったようです。
ネフローゼは体の抵抗を奪ってしまう病気。
よく熱を出す村山に対して、森が看病をして、
夜中にコンビニをかけ巡るようなことも多かったのです。
あるときは、村山が「熱が42度になったら僕死にます」と言われ、
森が体温計を見たら41度を超えていました。
しかし森は「いま40度やなあ」とごまかしたといいます。
村山が自転車に一度も乗ったことがないことから、
その練習を行い、運転できるまでにしたこともあります。
村山は髪も爪も伸び放題。
森から切るように言われた村山は次のように答えたという。
「どうして、せっかく生えてくるものを切らなくてはいけないいですか。
髪も爪も伸びてくるのにはきっと意味があるんです。
それに生きているものを切るのはかわいそうです」
長い闘病生活の中で、多くの子供たちの死を見つめているうちに
村山の心に芽生えた生命へのいたわりや無常観がその言葉に
表れているのかもしれません。
それでも、森は嫌がる村山を引きずるように床屋に連れて行って、
切らせたこともありました。
そして、17歳、
奨励会に入会してからたった2年11ヶ月という
異例の早さで4段に昇段しました。
村山プロ棋士の誕生です。
彗星のごとく現れた大阪の大型新人として、
全国に知られるようになりました。
ちなみに奨励会入会から4段に昇段するまでの
期間は、谷川浩司で3年8ヶ月、羽生善治で3年ですので、
2年11ヶ月がいかに凄いことかがわかります。
彼の口癖は「早く名人になって将棋を辞めたい」
また、仲間うちでは「将来結婚したい」とも言っており、
将棋に打ち込む一方で、暖かい家庭を持つことにも
あこがれを抱いていました。
そして、20歳になったときに森にぽつりと言った言葉は、
「20歳まで生きることができてうれしいです」
平成7年、村山25歳のとき念願のA級昇級を果たしました。
最強棋士10人に入ったわけです。
順位戦の激しい戦いを終えた後は、必ずといっていいほど、
村山は体調を崩し、寝込みました。
主治医はときに入院を勧め、体力的にも精神的にもギリギリの
戦いを繰り広げている村山を容赦なくしかったりもした。
羽生との初対戦は、村山20歳、羽生19歳のとき。
このときは羽生の勝利。
平成9年竜王戦では羽生名人と村山8段として対戦した。
羽生名人曰く
「終盤に誰も気付かないようなはっとするような手を打ち」
村山の勝ち。
平成9年村山は膀胱癌が発覚。
しかし、手術を拒否。
鎮痛剤も抗がん剤も拒否。
頭がもうろうとしては、将棋が指せなくなると考えたからです。
ところが、
手術しないと余命6ヶ月との宣告。
結局、最終的には手術を受け入れて、
8時間半に及ぶ膀胱の摘出手術を行いました。
手術は成功しましたが、それから1ヶ月も経たないうちに、
村山は対局を行うことになります。
もちろん医者が必死に止めました。
しかし、村山はいっこうに耳を貸すことがなかったのです。
その後の村山の快進撃はめざましく、
直前までB級に落ちていたのですが、破竹の勢いでA級復帰を
果たしました。
膀胱摘出の大手術を乗り越え、奇跡のA級復帰を遂げた村山に
誰もが惜しみない心の拍手を贈りました。
平成10年2月NHK杯トーナメント決勝、羽生名人との対戦。
羽生は終盤「完全に負けを覚悟」しました。
ところが、村山に大きなポカがあり、村山敗戦。
2人で天を仰いで、2人の最後の対局は終わりました。
羽生の村山評は
「将棋に対する思い、たけが半端でない。やり甲斐のある相手」
実はこの対戦の前に、村山は容赦のない残酷な現実を突きつけられていました。
癌が再発していたのです。
村山は1年間の休場を決めました。
そして平成10年4月A級昇級パーティーを最後に
将棋関係者から姿を消しました。
両親には誰にも知らせないでほしいと告げました。
「生きていた痕跡も消したい。」と。
8月8日、村山は薄れゆく記憶の中で、
口にした言葉は、「8六歩、同歩、8五歩・・・」
そしてその声は「2七銀」で止まりました。。。
村山のすべての戦いはここで終わったのです。
29年の命がけの挑戦は、A級在籍のまま終止符を打ちました。
通算成績は356勝201敗、うち不戦敗12局。
羽生名人との対戦成績は6勝7敗。
最後の言葉「2七銀」が、
29年の人生の最後の一手になりました。
森が駆けつけたときには、村山は既に葬儀場に運ばれていました。
村山の遺体の前で、森は泣き崩れました。
「村山君・・・」
「村山君・・・」
引き裂くような悲しみが、森の体をつらぬき、その言葉ばかり
を繰り返しました。
「村山君、もうわしの力は要らんのか?」
「助けは要らんのか?」
村山のひつぎには、竜王戦の対羽生の棋譜が入れられました。
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参考、引用;
「聖の青春」(大崎善生著・講談社文庫)
https://www.youtube.com/watch?v=5-6hCAleopg
https://www.youtube.com/watch?v=e5mMt4zu5e0
https://www.youtube.com/watch?v=Pn45uq_0kU4
将棋界で東の羽生、西の村山と言われるまでになった天才棋士です。
村山は幼い頃に「ネフローゼ」という重い腎臓の病気にかかりました。
遊びたい盛りに入退院を繰り返し、常に体の安静が必要な
生活に対して、自暴自棄になった時期があったといいます。
それを救ったのが、村山の父が勧めた将棋でした。
村山が6歳の頃です。
すぐに夢中になり、病室で1日中、
将棋盤や本に向き合うようになりました。
5年間を過ごした療養所を出た小学6年の頃には、
誰もが一目を置く存在になっていました。
14歳でプロへの登竜門、奨励会に入会。
村山は森信雄4段の元に弟子入りし、同居を始めました。
森と村山の関係は通常の師弟関係ではなく、
親子のような関係に近かったようです。
ネフローゼは体の抵抗を奪ってしまう病気。
よく熱を出す村山に対して、森が看病をして、
夜中にコンビニをかけ巡るようなことも多かったのです。
あるときは、村山が「熱が42度になったら僕死にます」と言われ、
森が体温計を見たら41度を超えていました。
しかし森は「いま40度やなあ」とごまかしたといいます。
村山が自転車に一度も乗ったことがないことから、
その練習を行い、運転できるまでにしたこともあります。
村山は髪も爪も伸び放題。
森から切るように言われた村山は次のように答えたという。
「どうして、せっかく生えてくるものを切らなくてはいけないいですか。
髪も爪も伸びてくるのにはきっと意味があるんです。
それに生きているものを切るのはかわいそうです」
長い闘病生活の中で、多くの子供たちの死を見つめているうちに
村山の心に芽生えた生命へのいたわりや無常観がその言葉に
表れているのかもしれません。
それでも、森は嫌がる村山を引きずるように床屋に連れて行って、
切らせたこともありました。
そして、17歳、
奨励会に入会してからたった2年11ヶ月という
異例の早さで4段に昇段しました。
村山プロ棋士の誕生です。
彗星のごとく現れた大阪の大型新人として、
全国に知られるようになりました。
ちなみに奨励会入会から4段に昇段するまでの
期間は、谷川浩司で3年8ヶ月、羽生善治で3年ですので、
2年11ヶ月がいかに凄いことかがわかります。
彼の口癖は「早く名人になって将棋を辞めたい」
また、仲間うちでは「将来結婚したい」とも言っており、
将棋に打ち込む一方で、暖かい家庭を持つことにも
あこがれを抱いていました。
そして、20歳になったときに森にぽつりと言った言葉は、
「20歳まで生きることができてうれしいです」
平成7年、村山25歳のとき念願のA級昇級を果たしました。
最強棋士10人に入ったわけです。
順位戦の激しい戦いを終えた後は、必ずといっていいほど、
村山は体調を崩し、寝込みました。
主治医はときに入院を勧め、体力的にも精神的にもギリギリの
戦いを繰り広げている村山を容赦なくしかったりもした。
羽生との初対戦は、村山20歳、羽生19歳のとき。
このときは羽生の勝利。
平成9年竜王戦では羽生名人と村山8段として対戦した。
羽生名人曰く
「終盤に誰も気付かないようなはっとするような手を打ち」
村山の勝ち。
平成9年村山は膀胱癌が発覚。
しかし、手術を拒否。
鎮痛剤も抗がん剤も拒否。
頭がもうろうとしては、将棋が指せなくなると考えたからです。
ところが、
手術しないと余命6ヶ月との宣告。
結局、最終的には手術を受け入れて、
8時間半に及ぶ膀胱の摘出手術を行いました。
手術は成功しましたが、それから1ヶ月も経たないうちに、
村山は対局を行うことになります。
もちろん医者が必死に止めました。
しかし、村山はいっこうに耳を貸すことがなかったのです。
その後の村山の快進撃はめざましく、
直前までB級に落ちていたのですが、破竹の勢いでA級復帰を
果たしました。
膀胱摘出の大手術を乗り越え、奇跡のA級復帰を遂げた村山に
誰もが惜しみない心の拍手を贈りました。
平成10年2月NHK杯トーナメント決勝、羽生名人との対戦。
羽生は終盤「完全に負けを覚悟」しました。
ところが、村山に大きなポカがあり、村山敗戦。
2人で天を仰いで、2人の最後の対局は終わりました。
羽生の村山評は
「将棋に対する思い、たけが半端でない。やり甲斐のある相手」
実はこの対戦の前に、村山は容赦のない残酷な現実を突きつけられていました。
癌が再発していたのです。
村山は1年間の休場を決めました。
そして平成10年4月A級昇級パーティーを最後に
将棋関係者から姿を消しました。
両親には誰にも知らせないでほしいと告げました。
「生きていた痕跡も消したい。」と。
8月8日、村山は薄れゆく記憶の中で、
口にした言葉は、「8六歩、同歩、8五歩・・・」
そしてその声は「2七銀」で止まりました。。。
村山のすべての戦いはここで終わったのです。
29年の命がけの挑戦は、A級在籍のまま終止符を打ちました。
通算成績は356勝201敗、うち不戦敗12局。
羽生名人との対戦成績は6勝7敗。
最後の言葉「2七銀」が、
29年の人生の最後の一手になりました。
森が駆けつけたときには、村山は既に葬儀場に運ばれていました。
村山の遺体の前で、森は泣き崩れました。
「村山君・・・」
「村山君・・・」
引き裂くような悲しみが、森の体をつらぬき、その言葉ばかり
を繰り返しました。
「村山君、もうわしの力は要らんのか?」
「助けは要らんのか?」
村山のひつぎには、竜王戦の対羽生の棋譜が入れられました。
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参考、引用;
「聖の青春」(大崎善生著・講談社文庫)
https://www.youtube.com/watch?v=5-6hCAleopg
https://www.youtube.com/watch?v=e5mMt4zu5e0
https://www.youtube.com/watch?v=Pn45uq_0kU4