共産党嫌い  | みんななかよく

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 きたる参院選の一人区では、かなり多数の候補者をおろすYO! と共産党の志位委員長が発言。民主・維新の「合併」と並んで話題になりそうな気配です。(ただ、わたしの狭いブログ世間では、政治談議は前ほど目にしなくなりました)


 世の中一般、天下国家の話だと漠として手におえないので、このブログと関わりのある範囲でいいますと、小沢、菅、鳩山とそろって民主党が伸びてきた頃には、都知事選などで民主押しの人が、「共産党は協力しろ」みたいなことをいって、共産党支持者が「こっちの方が早めに候補を立てたのに、何様? 」と反発するって光景が見られました。

 正確にいうと都知事選では、民主党が候補を立てて、石原都知事とガチンコ対決したという事ではないのですが、共産党が早めに候補を決めて浸透を図ろうとすると、「どうせ共産党一党だけでは当選なんて覚束ないのに、組織固めって自分都合で候補を立ててさ。反石原の幅広い協同を最初から視するんだから、もう。ああいうのって『一党独善』よね」って、これは実際にそういう言い方を聞いたわけではなくて、わたしの想定した言い方ですが、まあ一頃は侃々諤々やっていました。


 いま、アンチ石原大連合ではなく反安倍政権の戦線構築という局面で、共産党をどうするか、共産党はどうするか、というのが議論になりそう。


 そのときにですね。サヨクは共産党が嫌い、という要素があって、これが一般人民の「アカの壁」(by BLOG BLUESさん)と違ったフェイズで問題になる・・・・・・(のか、とくにインテリサヨちゃんなんて少数派だから、四捨五入の範囲でネグれるのか)。


 岩下俊三さんとのやりとり。


 政治家そのものの劣化  

kuroneko さま
なぜ僕が共産党が嫌いかというと「嘘」をついていると思うからです。純粋でない「正義」や本物でない「ヒューマニズム」は背中が痒くなります。なぜならあの党の最大の汚点は「粛清」と「裏切り」という歴史的事実が消えないからです。旧聞ですが我々以上の世代が共産党を語るときなからず「六全協」が問題になります。


つまり「粛清」体質とごまかす言い方自らの過激さを隠してしまう「代々木」体質に対する嫌悪感なんです。いまでも夢の中に出てくる「民青」への恐怖感はトラウマになっているほどです。だからといって右翼が言う「反共」とか「反日」とは全く違います。


しかるに我々は理想を「実現」しなければならないのです。そのためのプロセスとして現実に妥協したらきりがないのです。一度落ちたら人間は際限なく堕ちていくのです。


高い理念と開かれた精神さえあればかならず夢は実現するのです。いまだに僕は「ゲバラ」信仰だと笑われているシーラカンス爺ですが、「それでも」正しいものは正しい、間違っているのは間違っていると言い続けたいのです。


民主政権は欠陥があったから潰れたのです。共産党も欠陥があるから大衆の理解が十分に得られないのです。

いくら遠くてもちゃんとした”うそでない”「理念」を高く掲げて進めばかならずいつか理解されると信じています。

サヨク小児病だと笑われてもお花畑と揶揄されても正しいことは正しいという信念を変えてはならないと思います。現実をいくら認識しても、認識が深まれば深まるほど賢くなって諦めるしかなくなります。それならむしろ賢くなるよりバカの方がいいと「僕は」考えています。

 (引用ここまで)


 60年安保世代はよく知らないけど、大学闘争、70年安保世代の人には「共産党のゲバルト部隊にポコられた」などの話は、珍しくないんでしょう。

 ただ今にして思えば、大学闘争の経験ってかなり一部の人にしか共有されていない。縁無き衆生はテレビで安田砦の攻防戦をみて印象形成していますから、同世代の中でも岩下さんの感覚にピンとこない人のほうが多いでしょう。

 

 共産党嫌いになる経験でもっと多いケースは、労働運動でしのぎを削ってライバルだった人なんじゃないかな。

 こちらの方は、総評が解体して労働運動が右めに再編されていったので、学生運動のやり取りよりもっと生々しいはず。現場を見ていないから断定の助動詞で終止させませんが。


 もう一つここは「考えどころ」だと、わたしが勝手に思っているのは、

 >そのためのプロセスとして現実に妥協したらきりがないのです。

とか、岩下さんの発話の後半に見られる、「現実適応」や「政治的妥協」やに対する忌避感。

 これは、政治そのものへの忌避感であって、共産党にとどまることではないでしょうけど、そういう感性がいくばくかの人にはある。

 あるいは、最近では最大の「政治勢力」になりつつある「投票に行かない層」のなかにも、この感性があるのかもしれない。けして全共闘世代の感性にとどまらず、現在のアパシーの底流の一つが、70年安保時代のラディカリズムに胚胎しているとしたら、これはどう考えればいいのかな、と思いました。