慰安婦はわたしの母、祖母 | みんななかよく

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おれは若い女も嫌ひではないが、年寄りを見ると何だかなつかしい心持ちがする。大方清がすきだから、其魂が方々の御婆さんに乗り移るんだらう。  ―夏目漱石 「坊ちゃん」


 

 わたしは母方の祖父母と別住同居で育った。母親は勤めていたわけではないが兄の学校のPTAの用などで外出することも多かった。そういう時は祖母の家にいた。

 祖母の客がお嫁さんの悪口をいうのを聞いて育ったのだから、わたしがおばさん感性になるのも無理からぬところだろう。


 祖母は高等小学校しか出ていなかったが頭の回転の早い人で、攻撃的な性格ではないが時として容赦なく相手をやり込める。母親はずっと妥協的な人間だったので、自分の母親の物言いのきつさを持て余していたようだ。


 祖母の生家は浅草辺の商家だというが祖母の父親が出奔し、家は零落していったらしい。祖母の子どものころ引っ越すたびに小さい家になったという。自分の母親が苦労したと祖母は懐かしんで、もう跡絶えた実家の墓参りに孫たちを連れたいった。だから今でも、わたしたち兄弟は山谷にある祖母の家の菩提寺にお参りする。

 祖母も母親も一人娘で、祖母の家はもう祭祀を継ぐものもいないのだが、自分一代は墓参りすると母親はいっていたし、わたしもそう思っている。

 しかし、祖母の家は後生がいいのだろう。祖母の母親の祥月命日は4月1日。祖母のたち日は4月16日で陽気のいい時分だから。


 そうして年寄りになれて育ったので、とくにおばあさんを懐かしく感じる。前のエントリにある「女たちの戦争と平和資料館」のエントランスには、日本軍性奴隷制度サバイバーの写真がかけられているが、行ったおりには一人ひとりの写真を見て、知り合いのおばあさんに似た顔をなんとはなしにさがしたりする。

 いわゆる「慰安婦」はだいたいわたしの母親の年配で、戦後も農作業などの厳しい生活を送ったものか、日に焼けて深いしわを刻んだ顔が多い。時間は無情に過ぎ、MLで「あのハルモニが亡くなった」という知らせを受け取ることも多くなった。わたし自身は被害女性たちにあったことはないのだが、戦後の歳月を、女性たちの越し方を思ったりする。

 

 訃を聞きし従軍慰安婦の年ごろを母の齢と重ね思へり


 わたしは日本、というより日本語を偏愛して、平安朝の言葉で和歌を詠むし、江戸時代の言葉で雑文を綴ることもできる。世界史に侵略も蛮行も多く、日本軍の関与した虐殺や人体実験や性奴隷制度があったことを認めたからといって、いささかも日本語や日本文化に対する愛着が減じることはない。つまりは反日であるとは自身を思っていない。わたしがむしろ日本人として面汚しだと思うのは、議員の某のように、慰安婦に向かって「本当に金はもらってないのか」などというごろつきだ。

 元「慰安婦」の人たちは、わたしの母、祖母でないのか・・・。 

 わたしは軽佻浮薄に類する人間だが、彼女たちの尊厳を貶める者に対しては闘っていこうと思う。


 慰安婦に金もらわずやと質したる議員と国の同じきを恥ず

  

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