講談の前座考 | 神田松之丞ブログ

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我々講談師および落語家は、見習い、前座、二つ目、真打ちという風に階級がわかれている。

これは厳密に分かれていて、協会によってこの昇進の基準は異なる。

落語芸術協会においては、見習いが1カ月(師匠によってはこの期間に差はある)、その後前座が約4年である。二つ目期間を10年ほど過ごし、合わせて14、5年ほどで真打ち昇進となる。

これが基本的な流れで年功序列である。例外的に抜擢があったりなかったりだ。

そこで、私は日本講談協会と落語芸術協会(以下、芸協)に両方所属させて頂いている。

というのも師匠の松鯉が芸協に所属しているので、講談師であるにも関わらず芸協の寄席で前座修行をさせて頂いた。非常にありがたい事である。

古くは芦州先生も芸協で前座修行をしている。(今の米丸師匠が後輩の時だから60年以上前か)色々あって途中でやめたそうだ。具体的な例を出すと怒られそうなので、自分で調べてもらえるとありがたい。

その後もちょくちょく、芸協に前座が少なくなった。人員不足を補う必要が出来、二代目山陽が芸協所属のため、講談の弟子が前座修行をさせて頂く機会を得たという経緯である。

講談の前座は落語と同じ4年間前座修行をさせて頂ける。基本、色物(太神楽、マジックなど)は1年の前座修行でいいが、講談は色物ではないので同じ4年という。

講談前座として修行をさせて頂いたが、これが落語の前座と基本区別なく扱って頂いて今考えても感激である。

ただ一つ大きな問題があったのが高座だ。基本、色物前座は1年という事もあり高座はない。もしも色物の前座が高座にあがる場合は、落語を習い、落語をやる。現にマジックの翼君は寄席でよく「転失気」をやっていた。

ただ講談の開口一番は、落語をやるわけにいかない。当然講談をやる。

ところがこれがきつい。現場にいる人間だからよくわかる。基本的に講談と落語の空気感は全然違う。

ここらへんを理解している人は非常に少ない。寄席の開口一番は非常に大事な役回りで、トップがこけるとお客様はそれを引きずる。寄席のムードを作るのが開口一番である。

落語であれば全然うけてなくても、ムードは最低限作れる。人を笑わせるような楽しい噺をしているからである。

とこらが講談はきつい。まず、落語じゃないのというところからお客様の疑問から始まる。謎を残したまま、あまり面白くない話を本来のサイズでない講談の無理にきった尺でやっていく。しかも拙い前座がである。

落語は長年の寄席という流れの中で、自然どういう噺をどこでどうすべきかという歴史的なやり方が出来ている。噺も寄席サイズに尺をきれるように出来ていたりする。噺とお客様にある程度の一体感がある。ジャンルと寄席といった方が分かりやすいかもしれない。

ところが講談はない。いや、少しあるけど、開口一番においてはその感覚に乏しい。

つまらない批判ではないことを前提に書くが、師匠は寄席で「三方ヶ原」をやればいいと最初言った。

「三方ヶ原」というのは講談のイロハのイで、まず多くの講釈師が最初に習うものである。

独特の修羅場調子というものを使う。講談師にとって必要な大きな声、調子、緩急、呼吸、体力を養うのに絶対必須だ。

ところがこれ一つ問題があり、何を言ってるか分からない。

大体10秒もやるとお客様はあきてしまう。それはそうだ、何を言ってるか分からないから。

寄席では空気作りという点において、絶対にやってはいけないネタである。ところが講談師には必須である。ここに矛盾がある。講談師にとって必要なネタと寄席にとって必要なネタがイコールでない。

私は三方ヶ原⇒鉢の木(大ネタ)からの「寛永宮本武蔵伝17席」にかかるわけだが、これも比較的軽い話があって落語に近くて良いが、その代わり落語と似ている部分があったりするのである。講談は落語に極力遠慮する必要がある。それは落語がメインの寄席だから。くすぐりまでついては申し訳ない。だからこれも出来ない。

仕方ないから落語にない緊迫感の「闇討ち」というチャンチャンバラバラの話をやったが、これも人の指が切られたり、バンバン人が死んでいくので開口一番に不向きすぎるネタだが、やむなくやっていた。

連続物にこだわる師匠からしてみれば「端物」好きになられたくなかったのであろうが、そのネタは寄席に不向きな物が多かった。

だから、お前の後はあがりにくいとお後の二つ目に言われたものだ。

もっというと「今日の開口一番お前かよ」とも言われたものだ。今考えても辛いが、あとの人に迷惑をかけたのも事実だ。

これは多くの人の、講談の開口一番の無理解によるものだと思う。

ネタ選びとして「徂徠豆腐」を開口一番というのも、めちゃくちゃである。整備されていないなぁと感じる。

私なりの答えは、まず講談というものをまくらで認識して頂いてから、緊張と緩和系の本編を短くやった。最低限講談の緊張感を味わって頂いてから、後は緩和的な笑いに転換してやっていた。
これを前座4年目の高座で出したと思うが、不完全な気もする。

あとは、女流講釈師の一部はキャラで売っていくパターンがあるが、あれは講談でうけている比率よりも演者自身の魅力でうけているのであろう。それは意味がない。講談をアピールする必要があるから、話の内容の魅力で受け入れてもらわないと意味はない。

未来レベルで、講談の前座が開口一番で悩んでいたら、それに対する明確な解答を用意出来ている先輩になりたいと思う。そいつがつまらない場合はしょうがないけど。

ただ一つ言いたいのは、私なりに前座として色々無茶もやって反省もあるけど、浅いレベルで常連ぶった一部の客が
「前座はまくらをしゃべるべきではない」に代表されるような言葉を、師匠に直接言ったりする。それでこっちは破門になりかけている。

こういう誰もがいうようなフォーマットにあてこんで、自分の頭で考えない奴にさんざん足を引っ張られた歴史がある。

そういう連中には、お前の何倍も考えてこっちは生きてるよと思うだけだ。

そして、こういう連中を無駄に騒がせないためにも、何らかのある程度普遍的な解答を用意する必要があるなぁと強く思う。