赤目四十八滝に行ってきた | かんちくログ

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1発屋どころか、まだ1発も打ち上がってませんが。勝負は、これから。

赤目四十八滝…と聞くと「心中未遂」とつけ加えてしまう。この本のせいで。



直木賞受賞作だけど、芥川賞のような味わい。転落し続ける人生。一日中、焼き鳥の串に内臓を刺しつづけてる男。

大阪で育った人たちにとっては赤目四十八滝はメジャーな遠足コースだそうで、「…心中未遂?」ってつぶやいたら、どん引かれました。車がなくても近鉄電車とバスで行ける、ということで女友達4人で行ってきました。

重たい一眼持っていったけど、ろくな写真が撮れない。そろそろ「シャッターボタンを押す」以外の技術を身につけねばならぬ。人物を撮るなら、相手の可愛い表情を引きだすとか可愛い角度を探すとか、「シャッターボタンを押す」だけでも何とか対抗できるけれども、滝相手じゃどうしようもないです。シャッターボタン押させていただきます。



台風の来る前の土曜に行ってきたのだけど、いい天気でほどほどに涼しくてハイキング日和でした。滝というのは高低差があるから見えるわけで、滝がたくさん見れるということはたくさん登らなくちゃいけないわけなんですが、がんばって登った甲斐のある景色でした。

しかし、どこで心中するんだっけ…そもそも赤目まで来るんだっけ? もう一回読まねば。

車谷長吉。万人にはおすすめできないけれど、本当に業を背負って書いている人。書かなくては生きていけない、人に迷惑をかけてでも書かざるを得ない、そういう鬼気迫るものが文章からもにじみでている。



 作家になるということは、深沢七郎さんの「楢山節考」の話をした時に取り上げたように、反「世間の常識」ということを命題として立てなければならないわけですから、そうでないと文学というものは成立しないから、反「社会の常識」ということを考えていると、だんだんその人は悪人になって行きます。一葉女史の場合でも明らかなように、一人の人間が作家になるということは、即ち悪人になることです。人から後ろ指を指されるような人間になることです。つまり因業な人間になることです。

 小説は、小説を書くことによって、まず一番に作者みずからが傷つかなければなりません。血を流さなければなりません。世の中には、まず一番に自分を安全地帯に隔離しておいて、小説を書こうとする手合いがいますが、そういう人にはよい小説は書けません。まず一番に自分を安全地帯に確保しておいて、他人の醜聞を覗き込みたいというのは、週刊誌の読者ですが、そういう読者と同じ精神では、すぐれた書き手にはなれません。自分は血を流したくはないけれど、併し名声だけは欲しいという人がいます。最低の人です。
 私は自分の骨身に沁みた言葉だけで、書いて来ました。いつ命を失ってもよい、そういう精神で小説を書いて来ました。生きるか死ぬか、自分の命と小説とを引き換えにする覚悟で書いて来ました。人間としてこの世に生まれてくることは罪であり、したがって罰としてしなければならないことがたくさんあります。小説を書くことも、結婚することもその罰の一つです。
 私は卑劣な人間です。卑しい人間です。悪人です。安岡正太郎氏に言わせれば、知能犯なのだそうです。人の嫁はんと、三回も姦通事件をやらかしました。私は自分がそういう人間であることが苦痛だったから、小説を書き続けて来ました。ほかにどんな理由がありましょうや。私は父の願いを裏切って、しがない文士になりました。私は私であることが不快なのです。どっとはらい。

(「飆風」車谷長吉 より)