精神の深さが、ほんとうを言えば、価値なんだぜ | 太田湾守−Irie Ohta−のブログ

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安藤昌益(江戸時代の思想家)の考え方の方法は何かということを少し申し上げます。たとえば講談、説法(説教)をするなと言っています。

「人道ニ暗カラズ人ニ教エズ人ニ習ワズ」

それがいいんだと言っています。そうしたら何も残らないではないかということになります。じゃあ、どうすればいいのか。何をもって偉い人、いい人、道徳的善人と言うのかと言ったら、どこにも「これは偉い人だ」という人が入り込んでくる余地がないわけです。つまり、どこにもない。偉い人だ、模範になる人だ、人の上に立つ人だというものが何もない。全部ないわけです。
 
そういうことは成り立ちうるのか、ということになります。この思想の方法の中で唯一、そういう言い方をしても成り立つのではないかと思えることは、算数や数学でよく言うように、一つの世界があるとすると、Aでなかったら非Aである。「AとAでないもの」と言えば世界全部のことは言えるでしょう。

たとえば、この社会は男の人と女の人からできている。女の人でなければ男であって、男の人でなければ女の人だ。その二つで一つの世界ができていると。数学的に一つの集合があれば、Aが部分集合だとすれば、全集合はAか非Aかと言えば全部尽くされてしまう。そこに入り込む余地はないことになります。講談、説法するなと言ったり、人に教えたりもするな、言ったり習ったりするなと言えば何もすることがないじゃないか。それ以外のことで何かすることがあるのか。それで価値がある何かをすることがあるのかと言ったら何もないではないか。言葉の表面では、そう取る以外にないわけです。

しかし、この人の方法の中には、Aでもなければ非Aでもない、つまり、一つの全体は、男でもなければ女でもない何かがあると考える考え方がこの人にはあります。どこにそれがあるのでしょうか。

常識的な論理、理路、理屈から言えば、そういうものはありえないわけです。AかAでないもの、と言えば全部尽くされてしまう。あらゆる場合にそうなって、論理から言えばそれ以外ありえないわけだし、まして説教もするな、されるな、習うな、人に教えるなという言い方をすると、価値あるものはどこにあるのか。何もないではないか、取り出せないではないかということになります。

けれども、安藤昌益の方法の中で、それを取り出せるところがあるわけです。何かというと、本当はそういうことは成り立ちませんが、Aでもないし非Aでもない何かがあるという考え方がこの人の中にあるわけです。

では、それは何なのか。これはいろいろな言い方、考え方があるでしょうけど、、僕がそういうことを言ってみようとすれば、深さということだと思います。表面、実体、かたち、見えるもので言えば「AかAでないものか」と言えばほかに余りものは何もない。どこにも余地がないことになるわけですけど、もし人間の、われわれの精神に深さがありうるとすれば、つまり、考えられるとすれば、深さだけは「AかAでないものか」では尽くせないことのように思います。

つまり、「あの人は心映えが深い人だ、精神が深い人だ」、「精神が浅い人だ」と言えるとすれば、同じ行いをする二人がいて、外から見たら全然変わったことをしているとは思えないでしょう。たとえば人が目の前で転んだら一人は助け起こすし、もう一人も助け起こす。はたから見て、この人とこの人が違うとは何も言えないではないかというふうになって、両方ともAと言えばAだ。「Aは人を助けることだ」と言えば、両方ともそうではないかとなって何も区別がつかないでしょう。
 
助ける人がいて、助けない人がいて、助ける人をA、助けなかった人は非Aと言えばそれで言えてしまうではないか、人が転んだときにどうするかで言えてしまうではないかとなりますが、精神の深さを認めるとすれば、この人が転んだ人を助けるときの助け方、精神の深さと、もう一人が助けるときの精神の深さと、同じ助けるという行為でちっとも区別がつかないけれども、人間の精神の深さが本当は全然違うことがあると認めるとするならば、それはAでもない、非Aでもない。つまり、「AとAでないもの」で全部が尽くせるとは言えないのではないか。人が転んで倒れているときに、助ける人と助けない人がいて、そのどちらかと言えば言えてしまうではないかということではなくて、助けるにしろ、助けないにしろ、精神の深さは一見すると外からはわからないものです。だけど、深さはある。深さは価値あることだと認めるとすれば、安藤昌益的な考え方は成り立つと思います。全部否定しているように見えてそうではない、ということが成り立つと思います。

たとえば僕の好きな思想で言えば、親鸞という人がそう考えるわけです。人が困っている、助けを求めるときに助けるのと助けないのとどちらがいいかと尋ねられたとき、「人が困って、病気になって倒れているのを助けるか助けないかはどちらでもたいした問題ではない」、というのが親鸞の答え方です。それはなぜか、と理由を言っています。
 
なぜかというと、そういうふうにして助けようとして助けても、人間はそういうかたちで完全に人を助けることはできない。つまり、中途半端に助けることはできるけれども、その人を本当に助けおおせることは人間にはできない。それはわかりきっていることだ。
 
そうだとすれば、たとえば目の前に人が倒れていて、それを助け起すか、助け起さないかは、そのときどきの心の持ちようである。どちらかという差は別にない。助けない人は意地悪で助ける人は親切という言い方は成り立たない、というのが親鸞の考え方です。

親鸞の言い方をすると、そうだとすれば、ひとたびある場所へ行く。あるいは精神の持ちようをある一つの極限に持って行って、それから帰ってくるという帰り方をしたうえで人を助ける。困っている人を助けよう、倒れている人を助けようという助け方をするならば、そのとき人間は完全に人を助けることができるんだ。だから、そうすべきだ。目の前に倒れたときに助けるか、助けないか、助けたほうが親切、善で、助けないほうが悪だという言い方は全然成り立たない。それはたいした問題ではない、という言い方をしています。
 
その言い方もそうですが、精神には深さがあるということです。助けない人も、なぜ助けないかにはその人の精神、心映えがある。心映え如何は人によって違って、外からは一見わからないのです。もし人間の精神の働き方の中にAかBか、AかAではないかという言い方、表面だけの言い方、あるいは目に見えるだけの言い方ではなくて、精神の深さを認めるならば、「AでもなければAでないものでもない」一つの場所がありうる。それは一種の精神の深さであって、その精神の深さが本当を言えば価値なのだということになると思います。

 

安藤昌益の方法の中にはそれがあって、その言い方も非常に特異です。たとえば禅などに割合と似ている考え方はありますが、少しだけ違うんです。禅でも盤珪の不生禅というものがあります。つまり、人間は生きているのでもなければ死んでいるのでもない、それが人間の現世の生き方だ。人間は生きてもいないし死んでもいないというふうにして生きているのだから、人間は死ぬことはありえないというかたちで悟りを言うわけです。
 
やや似ていないことはないのですが、安藤昌益は悟りとかではなく、精神の深さでAでもなければ非Aでもない場所がある、それは深さだけからできている。もし深さを認めないなら別だけれども、認めるならば、深さは「AでもなければAではないものでもない」ところにしかないという考え方だと思います。大変面倒くさい考え方というか常識外れな考え方で、そういう考え方をしたらこの社会では通用しないのではないかということになると思います。

たとえば芸術、宗教、イデオロギーが本当に考えられた場合にはその深さを認めざるをえないし、認めなければだめなのではないかと僕は思います。そのことは、なかなか普遍的に言うことができないのです。安藤昌益という人は「深さがあるではないか」とは決して言っていないのですが、Aでもなければ非Aでもない何かがあることだけは歴然と言っていると思います。

それが安藤昌益の方法の根本にあります。一見、文字の表現だけで言えば全面否定してしまって、仏教も認めない、儒教も認めない、老荘の思想も認めない。何も起こらないではないか、これでは全否定しているだけではないかとなりそうですが、本当はその中に精神の深さの場所があるんだよ、ということが安藤昌益の基本的な考え方になります。それが、安藤昌益が直耕という言い方で言っている思想の根底になるのではないかと思います。