今日やろうとすることは、現在ということそれ自体を、どういうことなんだろうかと考えて、それを何とかうまく言葉にするということです。
さて、うまくどこから入っていけるのかよくわからないんですけど、ただ、現在という、その延長線のひとつである社会の制度が始まったときに、ひとつのおとぎ話というか童話、それが大きな問題になって、偉大な人たちがそのことを問題にしたことがあるんです。
それはどういうことかというと、そのおとぎ話というのは、昔々あるところに、ひとりはたいへん勤勉で、まじめによく働き、よく貯蓄をし、そして精を出して働くひとりの男がいた、と。一方に非常に怠け者で、仕事もろくにしないし、いつでも怠けて遊んでばかりいて、少しも賢いところがない、そういう男がいた。こういうふたりの男のあり方の違い、つまり片方は資本を蓄えて利潤をたくさん得るような仕事をし、そしてどんどん富を蓄積していった男なんです。一方は怠けて、ろくに働かないし、働き方も鈍いし、のろのろしているから、どんどん貧しくなっていく一方だった。
そもそも資本主義の社会がどうやってはじまったかというと、いずれにせよ、そのふたりの男に象徴されます。片方は資本を持って、それを使って、ますます利潤を得て、ますます富むというふうになったし、片方の怠け者で、ろくすっぽ仕事をしないし、賢い仕事の仕方もしない、そういう者はますます貧しくなっていったんだ、と。
言ってみれば、それが近代の資本主義の社会で、資本家になって栄えていく者と、ますます貧しくなっていく者との分かれ道というのは、そもそもどこではじまったかというと、そういうところではじまったんだということが相当大きな問題になりました。一般的にそういう解釈のされ方をしたわけです。
ところで、その中に異端の人がいて、異端の人が言うには、そのおとぎ話はちょっとおかしいのであって、ばかばかしい話だというわけです。そういうおとぎ話のもとになるところをたどっていくと、そうじゃない。一等はじめには多くの人を征服する者がいたとか、人を制圧して自分のほうにうまくなじませる者がいたとか、極端なことを言えば、殺人、暴行をやって、とにかく人のものを取ってしまったということが最初にあったんだ。一方の男が怠け者で、一方の男が勤勉だったから、こっちが富んで、こっちが貧しくなったんだというのは嘘の話じゃないかと言う、異端の人たちがいたわけなんです。
それではどちらの考え方が正しいんでしょうか、ということになるんですが、どちらの考え方が正しいかというのはなかなかうまく決着がつかないように思います。つまり決着がつかないで、それこそ現在までやってきているように思います。
現在でもなおかつ、勤勉で、賢く仕事を処理し、よく働き、よく貯蓄するという人のほうが、怠けて、働き方もうまくないし、貯蓄もしないしという人よりも富んで、そのお金を使って何か仕事でもすると、それがどんどん富を蓄積していくというような気もします。気もしますということは、そういう人は現在でもいるわけです。たとえばそれは、松下幸之助さんの物語であるし、孫正義さんの物語であるしというふうに考えてみると、いまでもそのことは真理であるようにも思われます。
ところで、真理でないところもあるんじゃないか。たくさんあるかもしれないんですが、すぐ気がつく真理でないというところがあるのです。それはどういうところかというと、たとえば事業をし、利潤を得て、利潤をますます殖やして事業をし、事業で殖やしていく、ますます富んでいくばかりだという資本家、企業家を考えてみると、みなさんでもそうかと思うんですが、そういう人は自分の蓄えそのものを使って事業をするということはまずないのであって、人の貯蓄、たとえば他人が銀行に貯蓄したお金を借り出して、それでもって事業をして、利潤を得て、また事業をして、また利潤を得るというのが常識的な線ではないかと思われます。
つまり自分が懸命に働いて、貯蓄をたくさんして、その金を元に事業をして、ますます利潤を得て、たいへんなお金持ちになったということはまずありえないし、あってもたいしたことはないのであって、どんどん利潤を得て、仕事をやって、また利潤を得てというふうにやっていくためには、ひとつのやり方というのがあって、そのやり方は、他人の貯蓄した金を銀行なら銀行を通じて借り出して事業をやって、それでもって利潤を得て、借金は返し、また利潤を殖やしというやり方をするのが、常識的な線でないかと思われます。ですから、必ずしもよく働き、勤勉に貯蓄するという人がどんどん富んでいったという物語は必ずしも正当でないというか、本当でない面が、すぐにある気がするわけです。
そういうふうに考えていくと、たとえばマルクスという人はそういうおとぎ話は嘘だと言ったわけですが、マルクスの言っていることは非常に真理であるような気がします。つまり、いくら勤勉で貯蓄しても、その貯蓄の金を事業に使ってということはありえないんだと。とにかく企業というものをする場合には、必ず人の貯蓄したお金を元にしてやるということが一般的なルールであって、そうしなければ大きくならないというメカニズムがあるということを考えると、マルクスの言っている、そんなのはおとぎ話だというのは真実であるような気がします。
しかし一方、そうかといって勤勉で、よく働いて、よく蓄えという人が、怠けて、あまり働かないで、貯蓄もあまりしなかったという人よりも富んでいくし、結構いいかたちで生活をやっていくのは間違いないということも、真理であるような気がします。そういう真理というのも部分的にはあるような気がします。
つまり、そこで、その問題は近代の、資本主義社会の初期のころ、大きな問題になりました。それはむずかしい言葉を使えば、根源的蓄積、資本蓄積というわけですが、根源的蓄積とはどのようにしてはじめになされたのかという問題になるわけです。
その場合に大きく分けて、いずれにせよどう考えても単純化して言えば、勤勉で、よく働き、よく貯蓄し、賢い方法で働きを効率よくしていった人が富を蓄えたんだという見解と、いやそんなばかなのはおとぎ話もいいところであって、そうじゃない、勤勉と怠け者の対比でもって富む者と貧しい者ができたんじゃない。もっともっとさかのぼっていけば人が人を征服したり、人が人を制圧したり、人が人のものをかっぱらったりということがまずはじめにあったんだ。それがなければだいたい蓄積というものはできないし、一方で富む事業家ができ、一方で事業する手段を持たないで、貧しくなる一方というのが出てくるはずがないんだというマルクスの見解。それは依然として、現在でもうまく決着がついていないと思います。いずれもある意味から言えば真理であるかのように通用しているわけです。
ところで、これが現在とどう関係があるかというと、これは、現在というもののさかのぼりうる限り一等はじめのときに起こった、簡単なようで非常に大きな問題、つまりおとぎ話のようで、しかしよくよく考えてみると、相当根本的な問題で、なおかつ、なかなか決着がつかないよという問題であったことが、いまお話しをしたような問題になっているわけです。
そこから延長されてきている現在というものを考えまして、たとえばどういうことが現在の特徴なんだろうかと考えてみると、その種の成功失敗物語といいましょうか、あるいは富む者と貧しきなる者の物語、つまり近代のはじめのころ非常に重要な問題のように、偉い人たちによって論議されたおとぎ話の問題というのは、現在生きている人たちにとってそれほど関心があるか、切実な問題でありうるだろうかと考えてみると、もう切実な問題ではなくなっているんじゃないかと思われます。
たとえばみなさんの心の中でも、もちろんそういうのはあるかもしれませんが、おれは一生懸命働いて、残業して、その残業した金を蓄えて、それをどんどん貯蓄して、それでもって何か事業をして、おれは松下幸之助みたいにだんだんなってやろう、あるいは田中角栄のようになってやろうと本気で思っているかと考えてみますと、ぼくの理解の仕方では、自分の中でもそうですが、冗談じゃねえや。つまり、どこかでしらけていて、そんなあほらしいことをして富み、かつ栄えなくてもいいから、適当に食べられればいいのでないかとか、適当にやればもっとおもしろいことはたくさんあるとか、その種のことに対して本気になってまじめになって、そうやってみようと考える考え方の人というのは、それほど多くはなくなっているのではないかと思われます。
一方で、おれは働くのが嫌いだし、怠けて、貯蓄もしないで、ぶらっとしていようと考える人というのはもちろんたくさんいるでしょうし、ひとりでにそうなってしまう人もいるのかもしれませんが、しかしそういうふうに思っている人でもなかなか思いどおりできないのです。つまり、ぼくらが子どものころは、悠々と、町内でも町の人に物乞いをしながら、名物の人で、結構食べたりなんかしている、のんきな人がいたわけですが、いまはそういうふうに思っても、なかなかそうさせてくれないものが現在の社会の中にあるんじゃないかって思うんです。そうすると、その種の成功失敗物語というのは現在ではそれほど大きな魅力もないし、魔力もなくなっているというのが、非常に正直なところの現在のわれわれの真意じゃないかと思われるんです。
問題なのは、なぜそうなってしまっているかということです。また一方でそう言い切ってしまうと、どこかにわだかまりが残るわけで、どこかでは少し勤勉に働いて、貯金も少しして、何とかもう少し安定感を得るようにならないものかみたいな考え方も、もちろん潜在的には誰にでもあって、それをまったく吹っ切ることもできていない。しかしいずれにせよ正面切って成功失敗物語、富む、あるいは貧しくなる物語というものに対して本気で打ち込んでいくという考え方が、薄れていっているということは確かなように思われます。
なぜそういうものが人々の気持ちの中から薄れていってしまったか、というのをいろいろ考えてみることはわりに現在の重要な問題のように思います。すぐに思いつくことを言ってみると、ひとつは資本家、企業家というものと、むずかしいことで言えば企業をやる手段、装置を自分が持っていない、ただ働くだけという人との考えられる格差というのは、それほどのものでなくなったということがあるんじゃないか。それは意識の上でもそうですし、実際問題としても、いまある企業の持ち主と、そこで働いている人との格差というのは、たとえば企業の持ち主が月給100万円もらっているところを、働いている者は20万円なり15万円しかもらっていないというその程度の違いで、どこにもそれほどいいことないじゃないのというふうになっている。それがわりに現在の特徴なのではないかと思うんです。
つまりそこらへんでは、さまざまな物語、富む者の物語とかお金持ちになる物語、貧乏人になる物語というその物語自体がすでにぶっ壊れかかって、あるいはぶっ壊れてしまって、それはわれわれにはだいたい見えてきていて、それほどの違いはないと。資本家あるいは企業をする者と働いている者との格差というのも、どっちがいいのかといったら、もし自分がなれるならどっちがいいとも言えないよという具合になりつつあることが、非常にはっきりと見えてきつつあるんじゃないかということが、ひとつすぐに言えると思います。
もうひとつは、これも近代のはじめのころにつくられた神話、物語には違いないのですが、その物語によれば、富む者はますます富んでいき、貧しくなる者はますます貧しくなり、そしてその格差はどうしようもなく爆発するまでに行ってしまうんだ、と。そういう近代初期の神話があるわけですが、その神話も少し危なくなってきて、その前に、富む者はますます富むかもしれないけれども、ますます貧しくなるはずの者も、6、70年前に言う意味での貧困という問題からはるかに救われてしまった、解決されてしまったということがあると思うんです。
そのことは近代初期につくられた神話としては非常に大きな神話ですが、その神話がそろそろ壊れてしまっているということは相当はっきりとわかっていて、そういう意味合いで、是が非でも富んでやろうとか、富んでいるやつはぶっ倒して取って代わってやろう、という意欲を減退せしめる要素が非常に多く出てきたと思います。
この現象はある意味でひとつの近代初期につくられた神話、物語の解体を意味しています。その解体がかなりの程度はっきり、現在すぐに見えてきてしまったということがあるのではないかと思われます。それでは現在というのをどういうふうに見ていったらいいんだろうか、現在を動かしている衝動力というものをどこで見ていったらいちばんわかりやすいだろうか、というのを探さなればいけないということになります。
ここで、現在の社会、文化、さまざまな制度のあり方をどこで根本的に押さえていったら現在というものがよく見えるだろうかと考えてみます。その中に自分がいるわけですが、自分自身も含めて、動かされているある衝動をどこでつかんだらいいか、というのはなかなかよくわからないのです。むしろわからないのが当然で、それがわかるということは、自分が巻き込まれながら、巻き込まれている自分をもどこかで見る目を持っていないと本当にはわからない、という問題でもありますから、それをうまくつかむことができないというのはどうしようもないわけです。
しかしそれでもなお、現在とはいったい何なんだ、どこでどうつかんでいったらわかりやすいのか、どうしたら多少とも見通しというか、やみくもの手触りでなで回しているだけでは、ちっともどこかに道筋が見えてくるわけでもないし、どこかに迷いが抜けていく道があるわけでもない。そんな状態から、どうすれば脱していけるかという問題にどうしても当面します。
その当面する問題はひとつひとつ突き当たって、ひとつひとつ解いていくこと以外に誰にもいい手段、いい方法というのはあるわけがないといえばあるわけがないし、ひとつひとつにぶつかってみると、何も特別なことがあるわけでなく、また特別有意義なことが転がっているわけでもない。別にどうってことはないんですが、そういうことにとにかくぶつかって、それからどこへ抜けていくかとか、それを取り集めたらどこに行けるのかという問題を考えていくよりどこで現在をつかんでいったらいいのかということをしきりに考えてみるわけですが、これはある程度実感的な体験を含めて言いますと、あるひとつの風俗とか流行、つまり刻々が何かひとつの変化であり、どこかへ行こうとするか、あるいは行こうとしない運動であるかわかりませんが、動きであり、そういう流れに自分の身を任せたときに、現在を突き動かしている衝動というものは何が根本にあるのでしょうか。
ひとつ大きなかたちで、あるいは実感的にわかるかたちで言えることですぐにつかまえてみると、とにかく絶えず現在の動きのいちばん激しい場所に自分の身を置いていくと、一刻のたるみもなく、いつでもいままであったものを壊していって、新しいものを編み出していく。新しいものを編み出していこうとすると、すぐに別の新しいものが出てきて、それがすぐに古くなって、また壊れていってしまう。いったん新しく見えたそのものは、次の時間の流れの中ではもっと新しいものが競り合って出てきて、それを壊してしまう。
つまり、新しさに対する競争、新しい手段に対する競争、新しいメカニズムに対する競争が寸刻のたるみもなくなされていて、絶えず古いものを壊して、新しいものを生み出そう、新しいものを生み出したと思うと、それを壊して、次の新しいものが出てきます。
こういう新しさという一種の妄想、衝動に突かれて、文化的なものもそうですし、理念的なものもそうですし、産業経済、あるいは社会制度みたいなものもそうですが、Aが新しいものを生み出したら、Bはそれよりももうひとつ新しいものを生み出します。この競り合いの中で、Bのほうが競り勝っているように見える。そうするとCなるものが出てきて、Bの新しさよりももっと新しいものを生み出して、Bが競り合いの中で衰えていく。今度はCに対して、Dが新しいものを生み出して、これがまた古いものになっていく。そういう言ってみれば競り合いの競争、新しいものを直ちに古くしていって、また新しいものが出てくる、直ちにそれを古くして、また新しいものをつくるとなっています。
この種の無限の衝動、妄想に向かって、絶えず新しさを古くしていき、また新しさを古くし、古いのは壊し、また新しさを、というかたちで、こういう競り合いにいったん入っていってしまったら、それを逃れることも、それから外れることもできないので、その衝動の中に身を任せる以外にないようなものです。
これを「現在」のいちばん動きやすい表面にあるものと考えると、そこの層にもしわれわれが自分の身を置いたり、自分の芸術、文化、あるいは理念を置いたりすると、そこでは常に新しさに対する競り合いがとてつもないかたちで行われて、それは無限衝動に似ているんです。どこまで行ってもその衝動を逃れることができない帯、層の中に入ってしまうということが誰にでもありうるということがわかります。
みなさんは誰でも職業柄、あるいは文化的な仕事のうえで、あるいは社会的な仕事のうえで、絶えず新しさを壊し、また新しさを生み、そういう競り合いをやる世界に何らかの必要上、あるいは何らかの必然上、自分がいったん身を置いてしまえば、現在ではそれを逃れることはできなくて、自分も新しさの競り合いをどんどん人とやっていくし、新しさを絶えず生み出していく、と。そしてまた古くなり、また新しさを生み出し、そういういわば競り合いの中に身を置く以外にどうしようもないかたちに誰でもがなってしまうという層が考えられます。
その層の中に誰でもが入っていけるし、誰でもそれが生活上不可避であれば、その中に入っていくより仕方がないわけです。そういう世界にみなさんの中でもすでに入って、それを職業としてやられている人もおられるでしょうし、それを事業として成立させている方もおられるでしょうし、文化的な仕事としてやっている方もおられると思いますが、その層に入っていったら、現在のいちばんめまぐるしい場所、絶えず新しさを古くし、古さを壊し、また新しさを生みという競り合いの中に入らざるをえなくなってくるということがあると思います。
それがいちばんよく表れているのは、たとえば広告とかカタログ、そういうものの世界に入っていくと、それは間違いなくすぐに新しさを生み出さなければならない競り合いの中に入って、新しさを生み出すと、また誰かが、あるいは自分自身がそれを否定するような新しさを生み出すというかたちの競り合いの帯の中に入ってしまうわけです。その競り合いの帯の中には、ある意味で現在の特徴をいちばんよく表している部分が含まれているということも確かです。それを肯定的に評価するか、否定的に評価するかということとはかかわりなく、その層に入っていったら必ず、現在のいちばんめまぐるしい場面に自分が身を置かなければならないというかたちになっていきます。
そうするとそこでは広告、カタログその他の仕事のように、絶えず無意識の衝動のように新しさを目指し、それを壊し、また新しさを目指し、そういう競り合いの世界に入っていくというかたちに誰でもがなっていきます。また誰でもが、たとえば現在というものを考える場合に、その世界を無視することができないと思います。つまり、その世界に自分が入る入らないは別ですが、その世界を考察、考えることなしに現在の特徴を考えることはできないという不可欠の部分として、そういうものが生み出されてしまっているということは確かなことだと思われます。
この部分は制度あるいは社会的なメカニズムの問題として言えば、資本主義の根本的な衝動の中には、新しい生産手段とか新しい技術、新しい企業、新しい市場、新しい消費財、そういうものを絶えず求めて、それを生み出して、またそれを使い古して、また新しさを生み出すという衝動が、現に資本主義というものの制度の根底のところにあるんだと考えると非常に考えやすいわけです。その問題は、絶えず古さを壊して、新しさを求めて、またそれが古くなり、また新しさを求めて、そういう競り合いが資本主義の制度的な根本衝動だと考えると非常に考えやすいわけです。
そこのところで考えていくと、それは人と人との、個人と個人との新しさ比べとか新しさに対する競り合いの競争というだけではなくて、企業と企業との新しさ比べの競争であり、もっと根本的に言うと、もっと根底的なことになるので、資本主義の新しさの競り合いという本質の中には、【自分自身を根本的に壊して新しさに向かう衝動】というのもあると考えたほうがいいと思います。
つまり、AとBとが競り合うとか、Aという企業とBという企業が競り合って絶えず新しい製品、新しい広告をつくりだすというのは、単にそれだけにとどまらないで、一企業、一個人の競り合いの問題でなくなって、【資本主義自体が絶えず自分を壊して、自分の存在理由を壊して、新しいものを求めているという根本的な衝動があると考えたほうが非常に考えやすいところがあります】。
そういう根本的な衝動の中から、たとえば広告とかカタログという問題、つまり絶えず新しさの競り合いを求めていくというものの中に入っていってしまう。これは広告、カタログであろうと、ファッションであろうとユーチューバーであろうと何であろうと同じことであって、絶えず新しさを求めて、新しいものを出して、古いものをだめにして、また新しさを求めて、しまいにいままで生産用に使っていた機械も古くなって、それらを全部壊さなければならなくなる。そういうかたちを無限にどこまでもやっていって、ついには自分の存立基盤、存立理由自体も絶えず否定しながら、新しいものを求めていくというものが根本的な制度的な衝動として資本主義の中にあると考えていったら非常に考えやすいと思います。だからいったん、そこに入っていったら誰でもがそういう競り合いの中に身を置かざるをえないというものが、どうしてもひとつ層としてできてしまうということがあると思います。
それでは、自己の存立基盤までも壊して新しさを求めるというかたちがどこまでも行ったら、つまり無限衝動で、無限にどこまでも行くのだろうかということがもうひとつ大きな問題になっていくわけです。
ところでこれがまたひとつ、現在ということの特徴だと思うんですけれども、現在の制度的メカニズム、あるいは文化のメカニズム、表層、つまり表側にある絶えず移り変わっている新しさを求めているその世界というのは、どこかで限界、国境線があって、いま生み出している無限衝動は限界線を超える超えないという問題に必ず当面するんじゃないかという、かすかなおぼろげなる予感、直感のようなものがあると思います。それも現在の非常に大きな特徴のような気がします。
たとえば成功物語、失敗物語の例で言えば、成功物語にも失敗物語にも、本気でもって自分の身を乗り移して打ち込んでいけない、どこかでしらけていて、そんなの関係ないよ、適当にやれればいいよという考え方がわれわれの中にあるのはなぜかというと、無限の新しさを求める競り合いというものはどこかで限界線があって、その限界線がおぼろげに見えているんじゃないのか。これがちゃんと見えているのに、何もそうあくせくと競り合いの中に入っていくことはないよ、あるいは成功失敗物語の中に、あんまりむきになって入っていくことはないのではないかということを、われわれに感じさせる非常に大きな要因ではないかと思われます。
これははっきりしたかたちで誰でもが指摘することはできないんですが、誰でもがおぼろげながら実感では、あんまり本気にはなれない。新しい競り合いの競争の中に入っていくと疲れもしますが、大変おもしろいのです。絶えず新しさを生み出し、それが古くなって、また新しさを生み出す、そういう世界というのは興味深くて刺激に満ちているんですが、こいつはどこまでも行くということではなくて、どこかに限界があるよ、どこかにあほらしさ、乗り切れないところがあるよとぼくらに感じさせるものがあるとすれば、それはいまの社会制度が持っている無限競り合いがどこかで国境線、地平線、限界線にぶつかるという、どこかの地平線がおぼろげに直感的には見えている、感じられているということを意味しているんじゃないかと思われます。それがまた現在というものの大きな特徴のような気がします。仕方がないという面がありますから、どうしてもそれをつかんでみたいと考えてしまうわけです。