自立続 | 太田湾守−Irie Ohta−のブログ

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そのばあい、その原点にある生活者の像といいましょうか、大衆の像というものは、決してイデオロギーにも、政治にも、思想にも行かない、文化にも行かない。どこかへ行くものは原点にならないとおもいます。つまりぼくには、どこかへ行ったほうがいい思想だという考え方はないんで、そういうところは『歎異鈔』でわかるところです。ぜんぜん何ももたないものこそ思想の原点になりうるので、自立ということが、観念化していく、あるいは、ますます抽象化していく、空疎化していくことにたいする歯止めとして、たいへんその原点は有効なんです。少しでもこういう理念をつぎ込んでいったら、この原点はよりよくなるという考え方を徹底的に排除するということです。

 

それじゃ、そういう原点はじぶんにもないのかといったら、じぶんの中にもそれがあるとおもうのです。つまりどこへも行かない、この世界になにがどう起ころうと、そんなことはじぶんが今日生きて明日生きて、三度の飯を食ってというところでは、少しも関係ないというふうなもの、そういう原点というものがじぶんの中にもある。じぶんの中のある部分はそうだということにかえって行くとおもう。しかし、そういう存在を厳密に求めていけば、そんな人はいるわけがないじゃないかということになりましょう。たしかにそうなんで、たとえ原点になる生活者でも、やっぱり大なり小なり、理念的にか観念的にかどっかに傾いているわけですし、また傾いていないとしても、たとえば新聞の世界でも、週刊誌の世界でもいいわけですが、そういうところにはちゃんと行っているのです。ほんとにそういうことに無関係に生きている人がいるかといえば、いないかもしれません。そのばあい、いないか、いるかということはあまり問題にならないとおもいます。つまりそれが原点で、そのじぶんの中にもあるであろう、それをも原点にして、じぶんの理念が行くのだし、文化は行くのです。じぶんの中にも求めれば、原点的な生活者はあるだろうということが、いつでも現実的な歯止めになっているとおもいます。

 

そこで典型的に原点になる生活者を想定しますと、その想定のなかに何があるのかといえば、ほんとは生活という概念よりも、<生存>という概念のほうがいいようにおもいます。つまり、ある人間が死んでなくて生きて生活しているばあいの最小条件といいますか、その中からいろんなものを全部排除してしまって、ともかく<生存>だけはしていて、それはまさに<生存>しないことと対応しているとかんがえられるものです。そういう原点の生活者を想定しているばあい、極端にいえば、今日食べて明日食べて、そして今日欲望し、明日煩悩し、という次元で理解するよりも、むしろ<生存>の最小条件を保持しているもの、というところでかんがえられるとおもいます。だからそれは、まさに生活しないことと対応するよりも、<生存>しないことと対応しているといったほうがいいでしょう。厳密にそれをじぶんで定義づけたのではありませんが、最小限度、<生存>しているばあいに、それはだれにでも普遍的にある状態ということになります。<生存>しているかぎりはだれにでもある状態という意味あいまでいけば、その重さはすごく重いという考え方が、ぼくにはあるとおもいます。それは、自力以外に世界はないんだ、というようにつきつめて行く概念の崩壊点で、再び自力へ引き戻しうる重さの根拠みたいな原点になるとおもいます。

 

それは生と死という概念とはちがいます。あるいは、全き生命をうるということにおいては万人平等であるという、わりあい宗教的な考え方にたいしても、<生存>ということと<生存>しないという概念は、少し違うような気がします。ぼくは、<生存>という概念を、人間は、ひじょうに即物的、具体的、活動的、自然物それ自体であるというところでかんがえていて、それにたいして、<生存>そのものを再び観念的に、反省的に取り出してきて、そこに生命という概念を与えるという考え方は、ぼくにはないようにおもいます。まったく物質的になくなっちゃうというところが行き止まりのような気がします。

 

ぼくはそういう言葉が、好きだけれど、親鸞は「往相廻向」とか「還相廻向」というでしょう。ぼくは人間というはのは、知識もなければなにもない、それでそういう人間が、もちろんないがためにじぶんの<生存>というか、生活にまつわるもの以外にあまり関心をもたないというのを原点におくとすれば、そういう存在はじぶんの中にもあるのですが、それが<知>を獲得し、<理念>を獲得しという過程は、宗教的な意味ではなくて、一種の<往相>の過程だとおもっているのです。<往相>過程すなわちなにかというと、それは<自然>であるとおもっているのです。つまり人間とは、放っておけばだんだん<知>を獲得し、判断を獲得し、そしてじぶんの<生存>にまつわること以外のことから、より遠いことについて考えをめぐらすようになる。そのことは決してそれ自体が上昇を意味しないとかんがえています。それは<自然>過程です。放っておけば人間はそうなるものです。だから逆な意味では、<知>をもってそういう<生存>の最小限度しか思考をめぐらしたことのないという生活者をかんがえると、これにたして<知>をもって誘う、理をもって誘うということはまったく無意味です。なぜならば<知>をもって誘うか誘わないかにかかわらず、<知>を獲得し判断を獲得していく過程、それから世界をより広く、より遠くかんがえて観念的に獲得していく過程は、<自然>過程にほかならないからです。ぼくは、それを人間の<往相>の過程だとかんがえいるのです。

 

ところがその過程で、たとえば、世界を獲得し、それからより遠くを獲得し、というふうに観念が獲得し、それで終りかというと、そうじゃない。そういう<自然>過程にとって、最終の問題は再びかえることです。つまり、<生存>の最小条件しか思いをめぐらさないで生きている、そういう人間像、それをつかまえられなければ、それ自体は、動物的生にしかすぎないんじゃないか。つまり、これに知識を与えて啓蒙しなければならんと考えられているような、そういう生活者像というものを転倒して、それこそが人間の価値観の源泉になるんだという意味あいで、それに意味を与え、そして包括する、そういうふうに、人間の<知>とか<理念>とかがとらえ直せないならば、それただ片道切符、つまり、それはただ<自然>過程を極限まで行ったというだけであって、それ自体なにものでもない。思想にとって、親鸞のいう<還相>といいましょうか、その<還相>過程がないんだとおもえるんです。これはある意味で、政治思想みたいなものにつながって行ったり、あるいは生活者という問題におおきな重点をおいていることの、いちばんの基になっているとおもいます。

 

ぼくは、政治なんかでも、ここに知識的かつ前衛的な政党があって、それが大衆にたいして一定の拠点をもって、それにイデオロギーなり、そのほか文化などを啓蒙して、そういう核をもって、この世を変えていくという概念とはまったく反対ですね。それはまったく無意味であって、大衆の原像にたいして、理念が入ってき、知が入ってき、文化が入ってき、といったばあいに、それはあまり意味をもたないであろうとおもいます。そういう意味あいでなら、レーニン主義というのは駄目なんだと、ぼくはおもっているんです。どうやってこの世は変わるんだということになるとおもいますが、それはぼくの考え方からも出てきます。つまりこの世を変わらせようとするとき、レーニンの考え方では労働者のなかでも、大きな基幹産業で現代の社会機構を支えているような産業のなかの労働者は、この世が変わるときのひとつの基盤になるとかんがえられているのですが、ぼくはレーニンの嘘だとおもっています。それはレーニンが結果を整理して導いたものです。ぼくはこの世が変わるとか変えようとかいうばあいには、少しでもこの世を変えようという理念をもち、知識をもった労働者というは役に立たないだろうとおもっています。そういう人たちは黙っているのがいちばんいい、なにもしないほうがいちばんいいとおもっているのです。つまり、なにかしたらかならず誤りを犯すだろう、ブレーキをかけるだろうとおもうのです。

 

するとこういう人たちは、どうしたらこの世を変えよう、変わるだというところに、参加して行くかといえば、産業の組織的な労働者ということじゃなくて、個々の労働者の存在において、つまり<生存>において、言い換えれば、個々に出て行って一緒になって、という出かたをする以外方法はないとおもっています。拠点をもって政党があって、これがこの世を変えるだろうというのは、まったく嘘だとおもっているし、そんな例はロシア革命を含めて、歴史のあるゆる例をとってきても、絶対にないし、またこれからもないだろうとおもいます。この世が改まる契機は絶対そういう人がつくることはありえないし、指導力になることはありえないので、ぼくがいう、じぶんの生活意識以外にあまり理念的になにももたない、つまりなんでもない生活者がつくるに決まっているとおもいます。それといわば<往相>的知識人じゃなくて、ぼくの意味あいでの<還相>的知識人がそれをするだろうとおもっています。この問題を最後までつきつめて行ったら、少なくともレーニンもスターリンも毛沢東もぼくは疑いますね。だが、マルクスはいろいろ読み返しましても、思想的に疑えるところがないようにおもいます。

 

ただこの世は政治現象とか社会現象とかは、あいつも進歩的だ、こいつも進歩的だから仲良くしよう、戦争は厭だから反対しよう、よろしい――そういう次元ですんでいるのだから、べつにそこまで云うことはないんだ、云わなくてすんでいるんだからいいじゃないか、とぼくにはおもえます。だからそういうところでは、いくらでも理解の仕方はできるだろうとはおもいます。