横溢してる何もないことば | 太田湾守−Irie Ohta−のブログ

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たとえばちょっと前に、朝日新聞の一面に、いまの産業の大きな傾向として「大なる産業は『いざなぎ景気』以上の好況を呈している」という意味のことが書いてありました。ぼくらはそう書かれなくても、大なる企業がどうなっているかということはおおよそわかっているから、そんなことは書かないでもいいわけです。ところが、朝日新聞はそういうことを書く。そこがわからない。なぜそんなことを書くのかということがわからないわけです。

少しもウソが書かれているわけではないけれど、どうしてそんな記事を書くのかがわからないのです。データを見れば、大なる企業はそのとおりで、ちっともウソではないんだけれど、なぜこれがこういうふうに書かれるのかということ自体が全然わからないわけです。それは、「おまえが会社勤めをした経験がないからわからないんだ」といわれるかもしれませんが、残念ながらぼくにも会社勤めの経験がありますから、そんな言い方は通用しない。そうすると、どうして朝日新聞の第一面にそういう記事が載るのかということはやっぱりわからない。ぼくも景況判断のデータは知っていますから、「データに基づいて書いたんだ」といわれれば、それはそれでわかるわけですが、でも、なぜここでそれがそう書かれるのかということ自体はわからない。「そう書け」と、上からいわれたから書いたのか、それともほんとうにこれはめでたいことだと思って書いたのか、それもわからない。

中小の産業とか個人の事業主が「いざなぎ景気」と関係のない地点に存在しているということにも触れられていないし、ではどうして好況なのか、それは大なる企業が大いにリストラをやったからではないかということも触れられていない。現象の内側をちっともめくらないで、ただ「いざなぎ景気」以上の好況がつづいているとだけ書かれている。なぜこんな記事を書く必要があるのか、そこがわからないわけです。

そういうふうに考えていくと、わからないことだらけです。そうなってきて、そのわからないことだらけの根本は何なんだというと、これもわからない。もうほとんど全部わからないといったほうがいいや、というふうになってきます。

詩の問題も同じです。団塊の世代にあたる荒川洋治さんや佐々木幹郎さんの詩であれば、それはストレートにわかります。ところが、年代としてはどれぐらい離れているのか知りませんけれど、現在の四十代、五十代の詩はもう、うわっという感じで、これはわからない。詩自体がわからないことがひとつ。もうひとつは、なぜこういう詩を書くのかということがわからない。両方の意味でわからない。


 宇宙は美しい物語の模倣をする

 (宇宙の中心にぼくらがいるというまぼろし
 
 ゆめで宇宙を想い描いて

 プラネタリウムでぼくらは育った

 北の星をゆびさして

 (星はもうすぐ燃え尽きる

 (ビニール袋のなかで金魚はすこやかです

 ここには出口なんてありませぬから

 ぼくらはまたお面をかぶって歩み はじめる
 
 お稲荷さまのキツネが参道をゆくので

 ついていくよ だまされたフリして

 (りょーかい!(了解!
 
 ぼくが本物かなんてどーでもいいれす

 きみが正しい「たこやき」でなくてもかまいません

 (きみが誰でもかまわないから

 たこやきさん太郎と手をつないで

 にせものや、つくりもの
 
 夜空みあげる

 フユーする される さゆれる

(渡辺玄英 『火曜日になったら戦争に行く』所収 「浮遊(フユー」)


たいへんむずかしい詩です。むずかしいというより、むずかしくしているんだろうと思います。つまり、感性とか感覚とか意味とか、それから内心でやっている自己問答みたいなもの、それが一致しないで、それぞれがズレているからむずかしくなっているのだと思います。結局、詩を書いて何をいいたかったのか、そういうものは何も無いと理解する以外にないくらい分裂しています。しかし自分なりの「脱出口」を、意味としてつくり上げたいというモチーフはちらりちらりと見受けられます。そういう意味であれば、いまの四十、五十代の詩人の詩編のなかではたいへん珍しい作品だといえる作品です。


 (前略)

 ココニアルモノハココニアルハズガナク

 ここにあるものをここにながめながら

 延々とエオスの登場を待つ


 たとえば

 立ち並ぶ

 看板のネオンサインのように


 たとえば

 孤立する

 駐車禁止標識のように


 たとえば

 組み換えられる遺伝子情報のように

 
 たとえば

 移植される

 人体臓器のように


 たとえば

 タトエラレナイケレドモ

 
 この先の地軸を支え

 夜更けの路上に立ちのぼる

 君の

 長い長い蒸気のように


(水無田気流 『音速平和』所収 「非―対称」)


水無田さんの詩を読んでいてぼくがいちばん不思議に思うのは、詩が終わったあとで一生懸命になって直喩をつくろうとしていることです。珍しいほどの思考力をもっているわけだから、詩のなかで思考力を発揮すればいいのに、詩が終わったあとで一生懸命になっている。ナマの現実の断片は生活のなかに転がっているわけだから、そこのところで思考力を発揮した詩にすればいいのに、そうではなくて、「無」だというところを基盤として詩をつくっている。それはなぜかといえば、過去を振り返ったり未来を展望したりするのが嫌いだというか、そんなことはしたくないというのが本音なのではないかと思えます。

そうすると、少なくとも詩の上では、「いま、現在」だけが存在価値だということになります。

「いま、現在」がどうなっているかということにしか関心をもっていないというか、それしか考えていない。

水無田さんは、日常生活のなかでの直感とか瞬間的な想像性に根ざした詩ではなくて、思考する詩といったらいいでしょうか、思考力で描く詩をめざしているように見えますけれど、そうであれば、どうしてそういう詩を最初からつくろうとしないのか。「無」であることはそれとしておいて、そのあとで考え抜いて、たいへんむずかしい直喩をつくり上げようとする。ぼくにはその両方が分離して見えてしようがないわけですけど、どうして初めから思考性のある詩を書かないのか。

ぼくはヴァレリーの「海辺の墓地」という詩が好きですが、あれが典型的に思考している詩だと思います。要するに、考えていることがちゃんと織り込まれている詩です。いい詩だなと思っています。

つまり、水無田さんもああいうふに詩を書いちゃえばいいじゃないかと思うわけです。なぜそう書かないのか。モチーフと切り離されたようにむずかしい直喩を考えてつくろとしているのか。その根っこにあるのは、やっぱり同時代的な詩と同じように「無」という問題だと思います。

これは何も大袈裟なことではなくて、人はいまこの社会で生活していて、日常生活を毎日のように繰り返している。そこのなかでさまざまな事柄を考えたり流したりしているわけですから、そこのところを思考力でつくりあげられた直喩でもって通していけばいいのではないかと、ぼくは思うわけです。ところがそれと切り離されたように、あるいは別物みたいなかたちで直喩が出てくる。その切り離され方の意味がよくわからないわけです。

これだけ考える人が「無」であるという基本線を忠実に守っている。そのあたりもぼくにはよくわからないところです。

いまの四十、五十代の詩人の詩を読んでいると、概していえばこれは詩になってないよというか、芸術をつくれていない状態を感じます。では、芸術をつくれないから短い評論のようなものをつくっているかというと、そういうところまでは考えていない。なぜ詩らしく行を分けたり、言葉を短くしたりしているのか、そういうことが全然伝わってこないわけです。

伝わってこないというのは、ぼくが古典的な比喩とか転換、あるいは古典的な想像力をもっているかもしれないので、以上の感想はぼくから見るとそうなるという意味で、良い悪いの問題とはあまり関係ないかもしれません。

しかし、なにも詩にしなくてもいいことなんじゃないかという感じは残りました。非常に日常的なことをスラスラとそのまま書いている。もう少し意識すれば詩になるんだけどなあと思っても、そこまで踏み込んでいない。モチーフもそこまで凝縮することができていない。そういう詩が大部分です。

いまの四十、五十代の詩人の詩に、もう少し「脱出口」みたいなものがあるのかと思っていたけど、全体的にそれがないことがわかりました。つまり、これから先自分はどういうふうに詩を書いていけるかという、そういう考えが出ているかというと、それはもう全然ない。やっぱり「無」だなと思うしかないわけです。

いってみれば、「過去」もない、「未来」もない。では「現在」があるかというと、その現在も何といっていいか見当もつかない「無」なのです。まったく塗りつぶされたような「無」だ。何もない、というのが特徴であって、これはかなり重要な特徴だと思います。