この写真は、わたしが20歳の時のものである。一緒に写っているのは、長年付き合いのある静岡在住の画家の息子さん。
この頃、わたしは登呂遺跡の近くにある「黒船印刷」という会社に勤めており、会社のサークル(文芸部・卓球部・ギター部)に所属していた。
文芸部では「編集長」を任されていたが、卓球にばかり明け暮れていたので、文芸の方は疎かになりがちだった。
元々読書などは大嫌いで、文芸等とは縁がなかったのだが、会社の会議室にある書棚に目をやった時に見つけた一冊の本がわたしを「詩」と「文学」の世界に引き摺り込んだ。
暑さ5cmはゆうにあるかと思われたその本のタイトルは「伊藤整・若き詩人の肖像」。ページをめくり最初に飛び込んで来た「いかにも人が死んでもよさそうな風の吹き方である」このフレーズに釘付けとなる。
部長に「この本を借りたい」と申し出ると「いいですよ」と快諾してくれた。本の重みなどすっかり忘れて夢中になり、帰りのバスの中で早速読み出したのである。
一体何ページあったかなんて事は全く覚えておらず、気がつくと読み終わっていたというのが、実感だった。
この本に収められている詩群は「雪明りの路」というタイトルで伊藤整が大正15年(21歳)に自費出版したものであり、伊藤整が詩人として旅立つ決意をした作品でもある。
帰りのバス停で同じサークルの菅沼さんが、「神戸君は詩人だねぇ…」と声を掛けて来た。仕事場ではまったく無口で会社仲間からは「変人」扱いされていた、この定年をゆうに超えてしまったかのような白髪の老人からの思いも掛けぬ一言が妙に新鮮でもあり、気恥ずかしくもあった。
「そんなことないですよ、菅沼さんこそ素晴らしい短歌を書きますね」
文芸部が発刊した小冊子に投稿した詩群の中の「私が帰った時」を読んだ彼の率直な意見だったが、自分の作品に対し、初めて評価してくれたのが菅沼さんだったのは意外でもあった。
「私が帰った時」は天国の地図を既に読んで頂いた方にはお解かりの通り、父の死に直面した若き自分の心情をストレートに表現した作品である。
わたしの書く詩は現代詩の文法に支配されていない分、詩に馴染みのない一般読者に向けて強いメッセージ性が込められていることもあり、難解な現代詩よりも親しみを感じるものであるらしい。
菅沼さんが独身である事を知ったのは、彼の作品(短歌)を読んで初めて解ったのであるが、それは衰え行く老人の悲哀が一匹の秋刀魚を通して十分に伝わって来た。
独りちゃぶ台に向かい、夕餉の中に一匹の秋刀魚を見る…それを美しい日本語で見事に表現した彼に、わたしは一種の嫉妬さえ抱いていたのだ。
詩の創作と同時にわたしは小説らしきものも実は書き始めていた。それは大学ノート数冊分にも及んだ。毎日、日記の如く書き綴っていたものにはタイトルすら付けてなかったが、福永武彦に影響を受けていたため、自らの精神世界を文字という表現で捉えていたように思う。
残念ながらこのノートはもうない。「勇樹」のお母さんが、わたしの荷物を全て処分してしまったからだ。
詩集にはもちろん、勇樹に向けた作品もあるし、お母さんと過ごした日々を綴った作品も多くある。ところで、いまだに疑問に持っていることが2点ある。
詩集の手書き原稿の事である。30年以上も前のことゆえ、パソコンなどという便利なものはなく、原稿は全て手書きで、ノートか新聞広告の切れ端に走り書きしたものが、元原稿になっているが、上京した時に、わたしは手ぶらだった。
何故、それが原稿として残っていたのか?上京してから書いた作品については理解出来るものの、静岡時代に書いた作品については、記憶が途切れている。
そしてもう一つは「蒲田の火災」である。昭和62年9月30日、自宅アパートの火災で、わたしはほぼ全てのものを失っているが、その焼け跡の中から、詩集の原稿だけが、無傷で発見されたのである。わたしは「天国の地図」が既に意志を持ち、人知の及ばぬエネルギーを持っているのではないだろうかとさえ思い始めた。
世に出る運命を携えた「詩集」には計り知れない生命力を感じるのである。
自分もしくは人様の生き方さえも変えてしまうパワーがおそらく秘められているのかも知れない。








