マスコミに潰された岡田ジャパン。 | プールサイドの人魚姫

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うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


プールサイドの人魚姫-FIFA

パラグアイ戦を楽勝ムードに盛り上げてしまったマスコミとスポーツ解説者たち。PKの悪夢からいまだ覚めずにいる日本代表は、精一杯の笑顔で帰国したが、彼らに「済まなかった」と謝罪の言葉をかけるマスコミ関係者は一人もいなかった。

力が拮抗するチーム同士が戦えば、総合力で勝るものが有利であるという視点は的を得ていない。

 ワールドカップのように短期戦で勝負がつく場合それを左右するのは、やはり個人の持つ技量とパワーであり、どれほどチームワークに長けていようと、ボールは一つなのだから、仲が良いだけでボールをゴールにまで運ぶ事は出来ない。

 世界の壁が如何に高いかを実感した日本代表だが、パラグアイとの差は「プロ意識」だっただろうか。日本にJリーグが根付いたのは1990年代で、プロサッカーの選手層は決して厚いものではなかった。華々しい話題を提供するプロ野球の影に隠れて、スター不在の日本プロサッカーは、観客動員数の伸び悩みや、クラブオーナーの経営ミスなどが重なり、世界レベルのサッカーを育てるまでには至らなかった。

 バブル崩壊のつけが、スポーツにまで及ぶという、タイミング的には不遇の時代を背負ってしまった事が、日本代表敗退の根底にあるような気がしてならない。

 世界のサッカーが国の在り方を示しているように、国を挙げてサッカーに取り組む姿勢そのものからレベルの違いを見せ付けられるのである。

 決して日本が弱い訳ではなく、他の国と比べても劣っているわけでもないのだが、それでも試合に勝てないのは、おそらく「国力」の差にあるのだろう。

それにしても、クーラーの効いたスタジオでニュースを盛り上げる為に「岡田Japan」を商品化するマスコミと、それに感化されてしまったかのように岡田監督の唇は滑らかだったし、便乗する選手たちの戯れ言葉は、TV用に作りあげられた内容だったが、南アフリカの物真似は「アパルトヘイト」を連想させるので放映すべきではなかった。

 いとも簡単に「侍」を口にする彼らが真の侍であれば、芝の上で腹を切る覚悟があっただろうし、互いの傷を舐めあうような行為はしない。

 PKを外した「駒野」に 仲間は励ましの言葉を掛けるが、砂漠の心に届く声は水蒸気のごとくに蒸発した。彼のサッカー人生はPKの十字架を一生背負うこととなったが、彼が真の侍ならば、その仇討ちはいつか必ずや果たすことだろう。

 サッカーは格闘技でもあり選手は皆、孤高のファイターである。そして日本が世界の壁を破るのに必要な事は、自分の中に仲間を作るのではなく、敵を作ることである。

 審判も監督も仲間もファンも母国もそして自分自身も敵だと思え。道はそこから開かれるだろうし、次元のステップアップにも繋がるだろうから。