年々増加する凶悪犯罪、そして低年齢化する殺人事件。その内容は短絡的で己の欲望を抑え切れずに有り余ったエネルギーの矛先が弱者へと向かう。
「罪を憎んで人を憎まず」等という言葉は既に過去のもの。奇麗ごとでは済まされないその犯罪手口と動機に対し、我々は閉口するばかりだ。
先日、山口県光市で起きた母子殺害事件に対し、求刑通りの死刑が言い渡されたが誰もが皆当然の結果だろうと思ったに違いない。
この身勝手極まりない元少年の犯した罪の背景を考察してみても、報道されている内容が事実であるとするならば、少年になんら同情の余地はない。
死刑についての是非が問われることは今回に限ったことではなく、以前から問題提起されてきた。
肯定も否定もそれぞれ一長一短があり、どちらが正当なのかの判断を下すこと事態が早計であり、答えは出ないであろう。
死に対する考え方も10人が10人とも同じとは言い難い。死刑が極刑であるとする現代の刑罰は昔からその形を変えることなく長きに亘って執行されてきた。
死を持って償うという方法は言い変えれば原始的手法であり、そろそろ刑法を改良する必要性が見えてきたとも言える。
それは現代社会に於ける死刑が本当に極刑に値するのかという疑問に突き当たることと、すでに限界を越えつつあることも事実だろう。
死刑が全ての死刑囚に有効なのかその辺も疑問が残る。死刑覚悟で犯行に及ぶ人間もいるし、早く殺してくれと檻の向こうで叫ぶ囚人もいるだろう。
彼らに罪の意識はあるのだろうか?それすらないまま死刑を言い渡したところで、事件の解決には至らない。被害者もそれでは浮かばれないだろう。
死刑と同等の刑罰を考える時期に来ていることを知るべきだろう。誰の為の死刑か、被害者だけの刑罰であってはならないとわたしは思う。
ところで、健康な死刑囚が密かにドナー登録をしていることはご存知だろうか?それが何を意味するかは皆さんの想像にお任せする。
