極道の子どもたち。 | プールサイドの人魚姫

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うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


やくざ 長崎市長を襲った事件とそして町田市で起こった立てこもり事件。この二つの事件には共通点がある。凶器が銃である事と二人とも暴力団員。彼らの所属する裏社会において銃は非常に身近な存在でもある。わたしたち一般人が携帯電話を使うように、彼らの世界では銃は特別な物ではなく毎日使う所持品と同じ。組員同士で撃ち合うことはあっても、民間人を狙うような行為はご法度。極道という言葉がある。やくざ、暴力団など反社会的集団を総称して極道と使っているが、これは大きな間違い。元々極道は仏教用語である。読んで字の如し。道を極めた者を指す崇高な言葉だった。しかしこれが時の流れとともに使われ方の意味合いが異なってきた経緯があった。やくざも本来ならば「役に立たない」という意味を含んでいたが、現在では極道もやくざも暴力団も同じ扱い(言葉)となっている。わたしの故郷藤枝には東海道に名を馳せた侠客「長楽寺清衛」という大親分がいた。あの有名な清水次郎長と杯を交わし兄貴分でもあった。子どもの頃は父からその話をよく聞かされており、強気をくじき弱きを助ける人物として藤枝でも有名な話が数多く残っている。現代における暴力団組織は企業のサラリーマンと同じ扱いで、自由に身動きが取れなくなってきており、結局は裏社会も組織としての機能を優先し、個々における選択の自由がなくなったともいえる。さてここからはわたしの思い出話しをしよう。
まっさらなサラシを何重にも巻きながら父が言った。「とし坊、今夜は遅くなるかも知れないから先に飯食って寝てろ」またかと思った。町の何処かで争いごとがあると必ずといってよいほど父も呼び出される。なぜ呼び出されるのか理由は至って簡単だった。喧嘩が強いこと、父を慕う舎弟分が多くいたことなど。かと言って極道として一家を構えていたわけではなかった。父には兄貴と慕う人物がいた。以前にも話したと思うが、父は酒乱だったので常にわたしは父の暴力を受けていた。それを見かねた近所の人がある人物を父に紹介した。「人切り信次」と異名を持つやくざだった。幼いわたしから見れば、隣のおじさんもこのやくざな人物も同じに見えていた。優しくそして美味しい物を食べさせてくれたりと、その人の小指がないことも背中の入れ墨さえ子どものわたしにとっては何ら特別な意味はなかった。火葬場で骨になった父を見て真っ先に「拾え」と言ってくれたのもこのやくざなおじさんだった。わたしの家はそのような世間から見れば道を外れたやくざ集団の溜まり場でもあった。父は普段とても優しく面倒見がよかった。来るものは拒まない、頼まれ事は断らない。そんな父を慕って極道と呼ばれそうな男たちが藤枝中から集まっていた。色んな種類の入れ墨を見たし、人が集まると必ず博打が始まった。花札である。わたしはトランプより花札の方に思い入れがある。おいちょかぶ、いのしかちょう。ごつい男たちに混じって遊んだ。この人たち気性は荒いが子どもには優しい、わたしが父の息子と言う事も大きく影響していると思うが、小遣いをくれたり、父が刑務所に服役中はわたしの面倒を見てくれていた。子どもが健全に育つ環境とはほど遠いと思うが、ご飯を食べさせてくれる人がいるだけで幸せだと思っていた。一番驚いたことは家の引き出しに拳銃があった事。もちろんそれを見つけた時はおもちゃだと思っていた。触って見るとそれはとても重く、片手で持てそうになかった。グリップの所に包帯がぐるぐると巻かれていた。おそらく滑り止めだったのかも知れない。本物だと気付きそっと下に戻したが、これを一体誰が使ったのか、それともこれから使うのか子どもながらに月光仮面や七色仮面が使っている銃とは随分違っていると思った。後で分かったことだが、それは父の舎弟である秋夫という人物の弟が処分に困り果てその結果父が預かったという話しであった。喧嘩に駆り出されることが度々あった父だが、一度だけ顔を血だらけにして帰って来た事があった。その時ほど恐いと思ったことはなかった。このような父を親に持つ子どもはおそらく大勢いると思う。わたしが一番困ったことは学校で父親の職業を聞かれた時だった。まさかやくざだとは言えない。しかし定職につかず酒ばかり飲んでいる父をどう表現してよいのか分からず悩んだものである。結局思いついたのは土建業だった。図画の時間に母親の顔を描けと言われた時も困った。知らないし、迷ったあげく隣のおばさんの顔を描いてしまった。今は笑顔で話せるほど懐かしい思い出話し。あの頃の威勢のよかったおじさんたちにもう一度会ってみたいものである。