教育現場から子ども達の悲鳴が聞こえる。 | プールサイドの人魚姫

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。

教室 苛めに駆り立てられる子ども達。不登校、いじめ、自殺など、子ども受難の時代でもある。いとも容易く命を放棄したり、苛めが増幅する教育現場。学校は苛めの巣窟なのだろうか?これだけ苛めや自殺が社会問題に発展している背景には現代人の隠れた闇が存在している。親と子の愛情のすれ違い、コミュニケーションの取り方が分からない。複雑化した環境問題。子ども達も大人同様に大きなストレスによって心を病んでいるに違いない。生まれて来た時は誰も同じまっさらな赤ん坊である。そこには何の差別も偏見もない皆同じ地球の宝物である。子どもの性格はおよそ3歳頃にその基礎が出来上がる。親の血を受け継いでいる訳だから、両親の性格に類似或いは、祖母、祖父の性格に似る事もある。明るい社交的な子だったり、内気で無口な子だったりと10人10色で全く同じ子どもはいない。それぞれに長所、短所が出来上がってくる訳だが、それは子育てと言う環境の中で親の愛情を受けながら形作られて行く。当然ながら子どもは親を見て育つ。親が育てたように子どもはその通りに大きくなる。乱暴に扱えば乱暴な子どもになり、会話が少なければ無口な子どもになるかも知れない。親もまた子育てによって成長して行くもの。甘やかして育てればわがままな子どもになるだろうし、一人っ子の場合は全てを独占して育つ。つまり独占欲の強い子どもになるかも可能性もある。学校は一つの巨大なサークルであり、集団生活を学ぶ場所でもある。様々な性格の子ども達が大勢集まるので、クラスを一つに纏めるには大きな労力が必要となり、生徒一人一人の性格や長所・短所を見極めるには時間がかかるだろう。教師は勉強を教えるのが役目であるが、自分もまた子ども達から子どもの何たるかを大いに学ぶのである。
先日、立て続けに起こった苛めの事件。滝川市では小6少女が福岡県では中学2年の男子。苛めによる事件としては最も悲惨な結果を招き今日の教育、子どもへの対処として大きな問題提起を残して行ったが、過去にも同じ様な事例はある訳で、事件が起こる度にマスコミや教育関係者は今後二度と起こらないよう注意を促すものの、結果的に何らの処置もとらず教訓として全く反映されていないのが現実。起こってしまった物を過去の亡霊として早く忘れてしまいたいと言う、大人社会、或いは学校の在り方が「臭い物には蓋をしろ」的発想で根本を直そうとする努力が見えて来ない。教育の現場でどんな苛めが起こっているのか、教師はどの様に生徒達に接しているか。福岡の事例では教師の言動が苛めの発端となっている様であり、生徒にランクを付ける等といった、子どもを物扱いするような教師は教師である前に人間性が大きく壊れた精神的自立の出来ていない大人である。この様な教師を野放しにしている教育委員会、国には子どもを守り育てる意識が実に希薄としか思えてならない。
私は以前にも書いた通り、小学生時代は実に悲惨な苛められっ子として育った。家に帰ればアル中の父から殴る蹴るの暴力を受け、学校に行けば汚い、臭いと罵られる。私の居場所は何処にもなく、逃げ込む先は押入れの中だったりした。学校からクラスの代表が数人家まで呼びに来ても、私は押入れの暗闇の中でじっと息を殺して時間が経つのを待ったものである。床屋へ行く金もなく逼迫した貧困生活の中でも爪や髪の毛は無情にも伸びて行く。垢で黒く汚れた爪と、長く伸びきった髪は肩まで届き、後ろから見ればまさに女子生徒だった。だから学校に行けば当然のごとく髪が長いだけでクラスの笑い者になり「女、女、女とは遊ばない」などと言った差別を受ける。汚い爪をした私と手を繋いでくれる女子はおらず、フォークダンスや体育の時間は一人宙に浮いたまま、惨めな思いをしたものである。私は苛めを暴力と言う形で解決したが、死のうと思った事は一度もない。生き抜く事への執念が勝った結果であると思っている。学校は楽しくなければいけないし、個々の生徒を特別な眼で見ることなく平等であらねばならないと思う。笑顔の絶えない教室は理想に近いが、本音を言い合える学校生活は特別難しい事ではないだろう。