重い瞼を開けると、靄のかかったような朝が見えてきた。ベッドの傍らには父が椅子に座って居眠りをしていた。午前5時を少し回っていたが、冬の外は星が置き去りにされたまま慌てて光っていた。
カーテンの隙間から漸く覗いた朝焼けは、大きな欠伸と共にやってくる。約六畳ほどの個室にはベッドが二つ並んでおり、もう一つは次の客を待ちわびるようにマットだけが淋しげだった。
「こんこん」とドアをノックする音が聞こえる。体温計を片手に看護婦が声を掛けた。
「泉君どう、昨夜は眠れたかな」
柔らかく温かな手が僕の身体に触れる。血の気を失った手や顔は、薄暗い部屋の空気で、より一層蒼白く輝いていた。
ベッドの横には、昨夜の残りをぶら下げた点滴瓶が、そのまま中に浮いている。
「看護婦さん、今日も点滴するの?」
「そうだね、泉君まだ常食無理でしょ」
三日前に救急車で夜遅く運ばれた僕は、干からびたミイラだったし、看護婦さんの言葉は当然だったかも知れない。
「あぁあ、また一日縛られたままか…」
「もう少しだから、頑張れ」
トイレにさえ自由に行けない身体を、看護婦さんが優しく微笑みでなだめてくれる。
看護婦が出て行った後になって漸く目覚めた父の顔は、二日酔いで少し疲れているようだった。
「満生、よく眠れたか?」
「僕は大丈夫、父ちゃんこそ眠れたの?」
昨夜の父はかなり泥酔状態で、足元もおぼつかず部屋に来るなり、空いたベッドに横になっていて、一体どちらが病人なのか分からなかった。半分食べ残した朝食を、父がきれいに平らげる。二日酔いのくせによく食べられるものだと、感心しながら見詰めていた。
病院は朝から忙しく、検査の連続だった。
「看護婦さん、今日は何の検査するの?」
車椅子を押しながら、若い看護婦が言った。
「今日はね、心電図かな」
「ふーん、それって痛い?」
「ううん、痛くなんかないよ」
それを聞いて少し安心し、車椅子の居心地を楽しんでいた。
検査を終え、部屋に戻ると父の姿はなく、開けたままの窓から冬の冷たい空気が、色を変えながら流れ込んでいた。この3日間、様々な検査を受けて来たが、正式な病名は知らされていなかった。
入院から一ヶ月が過ぎた頃、東京から一人の医者がやって来た。「榊原仟」、東京女子医大の心臓外科医だった。その先生がどんな医者なのか僕は知らなかったし、医者が誰であろうと関係なく、病気を治してくれるのであれば誰でもよかった。
「日本で最も腕の良い名医と呼ばれる先生に診て貰えるのは、とってもあり難いことなんだぞ」と、父が枕元で囁いた。
「あれ?どこ行ってたの…」
「父ちゃんも忙しいからな」
急に居なくなったり、突然現れたりする父の行動が、とても不思議だった。
榊原先生が下した診断に誰もが息を呑んでいた。
「本人には伝えない方がいいでしょう…」
主治医と看護婦たちの前で、僕の病気について説明がなされていた。
「拡張型心筋症」原因不明の不治の病だった。現代の医学では手の施しようがなく、運を天に任せるしかなかった。
窓辺から覗く冬の夜空を見上げながら呟いた。
「父ちゃん、見てほら、まるで蛍だね」
夏になると必ず捕まえてきてくれた、父のプレゼント。源氏蛍を想い出していた。
「満生、欲しいか?」
「うん?父ちゃん今、冬だよ蛍なんかいる訳ないじゃん」
馬鹿げた話をするものだと思っていた。
その夜はとても冷え切って、この冬一番の寒さだった。看護婦が深夜の巡回を終える。ナースセンターには、心電図モニターの光が同じリズムを刻んでいた。枕元の異変に気が付き、そっと瞼を開けてみると、小さな虫籠の中で数匹の蛍が淡い緑色を放っていた。
僕は夢だと思った。
「えっ?まさか…」
何度も眼を擦り、確認してみたが確かにそれは紛れもなく蛍だった。姿は見えなくてもその光輝く存在は、明らかに夏の風物。
見上げると父が立っており、微笑みと陽炎のような光が父を包んでいた。
「父ちゃん?…」
「満生、お別れだ。父ちゃんもう行かなくちゃならん」
「え?どこへ行くの…」
「最後のプレゼントだよ、その蛍は永遠に輝き続ける」
「父ちゃん…」
虫籠の蛍が一際輝きを増し、部屋中が緑色の帯となって満生を包み始めた。煌めきの中で父の姿だけが薄れて行く。満生の顔が徐々に赤味を帯びてきた。
朝の早い検温が始まり、看護婦の声で眼が覚めた。
「あれ?看護婦さん父ちゃん知らない?」
「お父さん?そうか、まだ知らされてなかったのね…」
「昨夜いたんだけど…」
「お父さんね、満生君が入院した3日前に交通事故で…」
「……」
「あら、珍しいこの時季に蛍?」
ベッドの傍らに数匹の蛍が死んでいた。
数日後、ナースセンターは満生の心臓が蘇えった話で持ちきりだった。
「それにしても不思議よね」
「蛍もすごいけど、満生君の心臓が治ったなんて」
冬の夜空を彩る蛍が、満生に優しく微笑んでいた。