ショ〜ワの味(砂町銀座) | 新・発動機とともに

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6.4.23 (火)☁ 20℃


降りそうで降らず。

ビミョ〜な空模様ですが、今や📱の時代となり、雨雲の接近や急変は一目で分かります。

ショ〜ワの時代は空白でした。

テルテル坊主に願いを込めたのは、一体何だったのでしょうか・・・


お江戸の所用が済んで、チョイと寄り道をしました。


江東デルタ地帯、一帯は海面より低い地域です。
地下鉄の出口↓
昭和22年、城東区と深川区が一体となり江東区となります。

話題の選挙🚙が、ガンガン走ってました。


駅から暫し歩き、お江戸の時代に造られた運河を渡ります。
旧中川と墨田川を結ぶ、全長5Kmの「小名木川」、家康公のやることはデカい!

当時、お江戸の湊は今の日比谷辺りで、浅瀬や砂州の多い難所でした。
人と風任せの時代、お江戸正面には良港の条件が無く、それを解決したのが運河でした。
海を通らない迂回路、大利根の東遷と併せて、人力の時代によくぞ造ったものと感心します。

現代の高速道路みたいなものでしょうか。
舟運による塩や野菜、年貢米、酒、味噌…等々、大量の物資が川と川を結ぶ運河を通って輸送され、神田や日本橋の物流タ〜ミナルへと繋がる水運のネットワ〜クが、百万都市を支えました。
特に房総の塩と、北関東〜東北からの年貢米は、貴重な戦略物資だったのでしょう。

旧中川と運河は水面の高さが違うため、今でも船はロック・ゲ〜トを使って出入りしています。
パナマ運河と同じ…
お江戸の時代、まだこの辺りは田畑が広がる風景でした。
何とか村です。

徒歩20分で目的地に到着
「砂町銀座…」
よく、📺に出て来る商店街ですが、初めて来ました。

全長670米、180の店が狭い道に並んでます。
規模から言えば、これより大きなア〜ケ〜ドの商店街は、お江戸に幾つも在ります。
大阪の心斎橋を歩いた時は、その規模にぶったまげました。
仙台も賑やかでした。

ここは、何とな〜く雰囲気が違う?
タイムスリップでございます。

惣菜の匂いが漂い…
「さぁ〜いらっしゃい!」と
活気があります。

幅員4米ぐらいで歩行者のみ

この狭さ、何とも味があり。


ガキの頃は、こんな店が有りましたわ。
「ペコちゃん」の頭をひっぱたいたりしてね。

昔ながらの洋品店も多いですねぇ~〜!
今や地方では殆ど見かけなくなりました。
都内の方が元気ですわ。

整骨、鍼灸、これも目につく。
ご年配の方には、パラダイスかも知れません。
あたくしも🦵を診てもらいたいところ。

食堂も…


途中の惣菜店で、遅い昼飯を調達しました。
商店街の数カ所に、休憩スペ〜スがあります。↓
土日は賑やかなんでしょうね。

曇天の下で食べます。
コロッケ、ささ身カツ、カニコロ、ナポリタン…お茶
これ、美味いなぁ〜♪
お一人様、懐に優しいショ〜ワの味です。
決して、安ければよいと言う訳ではなく、双方がOKの庶民の味です。
今思うと、ショ〜ワはそんな感じでした。共存共栄です。

地勢を見てみると、戦前は大工場があり、一帯は空襲で焼野原と化しました。
戦後、大工場の跡は大規模な団地となり、町工場も目に付きます。
駅から離れた商店街が賑やかなのは、人々の需要と魅力があるからでしょう。
近くには全国展開の大ス〜パ〜も在ります。
大艦に挑む駆逐艦みたいです。

この辺り、海抜―0.7米
地下水の汲み上げによる沈下です。
江東デルタを水害から護るのは、堤防と防潮堤、数々の水門であり、自衛隊ではありません。

帰り道、珍しい船が…?
浚渫用かな?

曳航ではなく、後方からボ〜トで押してました。
へぇ〜上手いものですわ!

平成19年、9月にカテゴリ〜1の🌀が関東を直撃しました。
総雨量600㍉⤴
あの時、荒川水系は非常にヤバい状態でした。
よくぞ持った。

上流はダムで貯水、中流は遊水池、下流は堤防と防潮堤、水門が支えています。

万一決堤すれば・・・
想定避難者200数十万人…
街も地下鉄も水没…
復興には数十兆とも…

百年に一度の対策が必要なのかと、キャンキャン吠えてもねぇ〜🐕

「国家百年の計」ですのよ。


万一の退路は、高速道路の高架ぐらいしか有りませんわ。
戦後、直ぐのカスリン🌀では、上流の埼玉から下町一帯は、水に襲われました。

今年も異常な猛暑になるのかしら~〜💦
更には大雨や猛烈な🌀とか…

ショ〜ワ浪漫の漂う一角、熱々のコロッケは☆☆☆☆☆です。

ハムカツも食べようかなぁ〜


お土産はメロンパンですのよ。