今日の日に想う | 新・発動機とともに

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2.12.8 ☀️ 15℃

少し前までは、今頃になると📺は特番を組んだり、映画などを流していたものです。

79年前、じい様、ばあ様、あたくしの知らない祖父や家族は、この日をどの様に受け止めたのだろうか・・・
聞いておけばよかったなぁ~

記録も何もなく、今や想像でしか知る術はありませんが、グラフ紙に少しの答えを見ることが出来ます。

明治生まれの祖父は、その当時は子沢山の父親です。
産めよ増やせよの時代、それが特に珍しくもない普通の家庭です。
子供と言っても、既に男兄弟は数年後には兵役を控え、昭和19年に1人が海軍に志願、1人が陸軍に徴兵、徴兵年齢の低下で、翌年には残った2人も陸軍に徴兵されます。
姉様達は女学校でナギナタやら竹槍を振り回し、勤労動員に励んでおりました。

昭和6年から、いつ終るとも知れない大陸での10年戦争が続いた時代から、ひいじい様は、一つのグラフ紙を昭和20年まで買い続けます。
今でも何冊かはあたくしの手元にありまして、昭和10年頃から始まります。

昭和14年…仏印へ
じい様だけではなく、各国の武官連中もせっせと買って本国に送っていたことでしょう。
専門家が観れば本文の内容から意図や目的、思考、例えば表紙の戦車なら武装、性能、鉄板の厚さまで簡単に解ります。
相手に解っても支障ない範囲で出していたと思います。

今とは違い情報は、新聞、ラジオ、本、グラフ紙、口コミの時代で、映像は国策のニュ~ス映画だけ。
泥沼となった大陸での戦争は、なぜか事変と呼ばれます。

昭和恐慌を経て、軍だけではなく、多くの人々が国策に乗って、大陸へ満州へと新たな希望を持って渡ります。
先方の一般大衆の目には、言葉の違う異民族が来る訳で、インバウンドの旅行客とは違います。

行く方は日々困窮した生活と閉塞感が漂う日本を出て、新天地で「一旗あげよう」と言う感覚ではなかったかと感じます。

グラフ紙にある「南進日本の勇姿」の一文、既に内南洋は日本の統治下でした。
ここで言う南進とは、間違いなく当時の米、英、仏、欄の植民地であった地域であり、当然にお互いの国益がぶつかり合う場面を予想していたはず。

田舎町のひいじい様が、毎月購入していたぐらいなので、多くの一般大衆は早い時期から、国の行く末は南進にあると感じていたのかも知れません。
既に欧州では戦乱の時代でした。

そして、79年前の今日になります。
天候は本日と同じような初秋の☀️で、午前9時頃から、よく📺に放映される「臨時ニュ~ス」が流れます。

この時点では、未だ戦果の公表はなく、「西太平洋において米英と戦闘状態に入れり・・・」だけでした。
引き続きラジオを切らずにの声が流れ、合間には勇ましい軍艦行進曲が流れます。
多分、本を買うぐらいですから、ラジオを持つ余裕は有ったと思います。
ずっと聞いていたはず・・・
真空管は大丈夫だったのかな?

グラフ紙は続きます。
全て検閲済みのお墨付きがあります。
一冊の表紙には、母艦から発艦直前の零戦が描かれています。
極秘でも何でもありません。
新鋭戦闘機は庶民も知ってました。
世界情勢なども不思議な事に、ある程度は正確に記載されています。
値段を見ると70銭…

この日、行く末に不安を持ちながらか、それとも時代の閉塞感が一気に跳んだのかどうかは解りません。

時系列でみると、じい様達は登校して初めて開戦を知ることになります。
帰宅後、大家族はラジオの前にいたことは間違いありません。
今度は対米英、大きな不安感があったと想像します。

ハワイやその他の地域の戦果が正式に発表されたのは、夜の9時でした。
ほぼ正確に近い戦果発表が流れます。

この時間が、多くの人々が懐いていた一抹の不安が消え、興奮と熱狂に変わった瞬間ではないかと思います。

熱狂や興奮は、未だに我が民の奥底に秘めているような気がします。
今のコロリ禍が、少しだけ似ています。

当時のラジオは今の国営📺と同じように、無料ではなく契約だったようで、悪しき流れは今も引き継がれています。
そのラジオも翌日には各地で完売御礼、本屋の世界地図も同様です。


更に翌日にはマレ~沖の戦果が発表されます。
英国の誇るプリンス・オブ・ウェ~ルズとレパルスの戦艦二隻が中攻により撃沈されました。
プリンスの名を冠する大英帝国を代表する艦でした。
日本なら「大和」の感覚でしょうか。

日本中が興奮と熱狂の嵐に包まれたことは、多くの文士達が残した記録で目にします。
何故か当時の新聞も何部か保管してありました。
多分、記憶に強く残った記事があったのではと想像します。

この一文、米内~山本ライン、二人の巨頭は明確に繋がっていた事が、当時の庶民感覚でも想像出来る内容です。
戦後に色々な書が世に出て来ますが…
紙面には「海鷲育ての親…」の記載があります。
当時の人々も人物像は少なからず解っており、戦後になって初めて耳にする話しでは無いことが解ります。

昭和18年、記事の内容は段々と精神論が濃くなってきます。
3年8ヶ月の後…

多分、ラジオを聞いていたかと思います。
そこには興奮も熱狂も無く、残った祖父母と姉様達は夏の暑い日を迎えます。
どんな想いだったのか解りません。

暫くして、男兄弟四人は内地勤務のためか、幸運にも無事に復員をします。