金澤の御能⑧10代重教公・11代治脩公 | 市民が見つける金沢再発見

金澤の御能⑧10代重教公・11代治脩公

【金沢・江戸】

前田家は7代目から9代目の3代にわたり藩主の早世し、同じ父𠮷徳公で異母弟の6男重教公(しげみち)は宝暦4年(1754)3月11日、将軍徳川家重に御目見し、9代重靖公の末期養子として13歳で家督を相続します。藩主就任前後、加賀藩では加賀騒動の余波が続き宝暦4年(1754まで保守派による大槻伝蔵一派の粛清が続き、また、相次ぐ藩主の交代により藩政は停滞し、藩の財政は一層苦しくなっています。

末期養子:武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のこと、当初は、幕府が大名の力を削ぎ統制を強めるため末期養子は禁じられていましたが、幕府の支配体制が一応の完成を見たことから、慶安4年(1651)に幕府は禁を解きます。

 

 

しかし、宝暦4年(1754)3月、金沢の町は、町人による盆正月を行い町々で囃子を催して祝い、江戸では家督相続披露と祝賀の能が行われています。5月25日に老中を招き、6月26日は一門衆、大名、旗本衆を招待。8月22日に、一門の婦人達を招き、9月29日には、婚約中の勝姫(千間姫・重教の妻・院号寿光院)と紀州候嫡子宗将が、父の宗直と共に訪れ、能を行っています。

盆正月:藩政期に前田家の嫡子誕生や家督相続・官位昇進などの慶事を城下で盛り上げ祝った行事。囃子: ひきたてるという意味の(はやす)から出た語で、能・狂言・歌舞伎・寄席などで、それぞれ特徴のある(はやし〉があります。仕舞:能の略式演奏で、囃子を伴わず、面も装束もつけず、シテ一人が紋服で、謡だけを伴奏に能の特定の一部分を舞うもの。

 

 

宝暦5年1755)1月12日、14歳の重教公は太鼓方の御手役者藤本太左衛門を呼んで、太鼓の稽古を始め、18日には宝生弥三郎から仕舞をならいだし、1月19日には元服式をあげ、2月1日、父吉徳公生母(預玄院)、兄宗辰公の生母(盛徳院)が、年賀に見えると、御敷舞台で囃子をはじめ、重教公弓八幡の太鼓を打ち「羽衣」「芦刈」仕舞を演じています。

 

(宝暦5年(1755)は、大凶作で翌6年3月から、米の価がひどく騰貴し、4月12日、金沢でも窮民たちが暴動を起こし打ち壊しを行っています。)

 

 

宝暦7年(1757)3月、加賀藩恒例の入国祝賀能が行う予定が、前年の打ち壊しなどの影響から引き延ばしの旨告げられ、恒例の将軍拝領の鶴の披露も中止が発表されます。入国能は6日を5日に短縮してもと考えますが結局中止になります。しかし、重教公は自ら演能する熱意から、翌宝暦8年(1758)2月、生母実成院姉操姫を二の丸に招き「弓八幡」「羽衣」「鵜飼」を舞い、翌9年(1759)1月、近く姫路候に輿入れの操姫への餞別としてを演じ、入輿のあとも、六十三輩の客を招き、囃子を行なっています。

 

(13歳の藩主重教公襲封間もなく、不足する金銀を補うため不換紙幣の”藩札”を発行します。市民は紙のお金を信用できず、物価が上がり経済が混乱し、米価が60倍に膨れ上がり、米穀商の打ち壊しが起こるなど大失敗します。それに追い打ちを掛け宝暦9年(1759)4月10日、金沢では、俗に「宝暦の大火」と云われる大火事が起こり、金沢城をはじめ10,500戸余りが焼失し、幕府から金5万両(現在の約5億円)を借りて急場をしのぎます。)

 

 

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六斗の広見と宝暦の大火

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12041889660.html

 

翌宝暦10年(1760)正月元旦の年頭の礼は、燃え残った金谷御殿で行い、2日の謡い始めは、手狭なので、御流れ頂戴のお吸物も、お囃子も省略、宝暦11年(1761)も同様でしたが、その年の3月27日に、年寄・家老・若年寄などに能を拝見させ、料理を出しています。翌12年(1762)重教公の能はよほど上達したのか、政務も顧みず夢中で能にふけるようになり、3月には宝生太夫から「道成寺」の伝授を受け、財政難に追い打ちを掛けるような大火での出費にも関わらず、能役者へは大枚な金子を与えています。

 

能役者全盛!!“上が好むところ下はこれにならう“

この頃の狂歌「世の中は 四つ猿楽に昼坊主 八つ町人に夕暮れの武士」と、当時の世の中で、もてはやされるものの順位を並べた狂歌で、藩の御手役者、宝生家の分家の弥三郎が、宝暦14年(1774)五人扶持加増の十五人扶持(玄米30俵)となり、宗家の宝生九郎は、10年前の二十人扶持が三十人扶持(玄米60俵)に給され、財政難にも関わらず10代重教公耽溺している様子と町人や武士の憤まんが垣間見え、当時の庶民にも響き流行ったのでしょう。

・明四つ(午前4時)昼九つ(午前12時)昼八つ(午後2時)暮六つ(午後6時)

 

 

拙ブログ

昔の金澤⑨30才で藩政を投げ出し隠居した10代藩主重教公

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12638711282.html

 

明和8年(1771)に重教公は30歳で家督を4歳下の異母弟の治脩公に譲って隠居します。その後にもうけた息子の斉敬、次いで12代藩主になる斉広公治脩公の養子となります。10代重教公は天明6年(1786)6月12日に46歳で歿しました。

 

 

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加賀藩十一代藩主前田治脩公は元住職

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11278414281.html

 

第11代藩主となった治脩公は、学問の振興に力を注ぎ、藩の学校を創設。学問の明倫堂と武芸の経武館の両校で、初代明倫堂学頭に漢学者として名高かった新井白蛾を京より招聘し、また、小松にも集義堂と修道館の2校を開校させます。なお、7代から11代までの藩主が短期間に交代したため、100万石の大名に見合った儀式の費用がかさみ藩財政は依然として逼迫状態が続いきます。享和2年(1802)に先代重教公の次男である前田斉広公に家督を譲り隠居し、文化7年1月7日(1810,2,10)に66歳で歿しました。法名は「太梁院」です。

 

参考資料

【PDF】明倫堂・講武館等之図

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=9&ved=2ahUKEwilpfOv8YjjAhUZa94KHWjhAHUQFjAIegQIBRAC&url=https%3A%2F%2Fwww2.lib.kanazawa.ishikawa.jp%2Fkinsei%2Fgakkou2.pdf&usg=AOvVaw3uo8id8SXy7yZwtdw8nlsL

 

 

つづく

 

参考文献:「文化點描(加賀の今春)」密田良二著(金大教育学部教授)編集者石川郷土史学会 発行者石川県図書館協会 昭和30年7月発行・「金澤の能楽」梶井幸代、密田良二共著 北国出版社 昭和47年6月発行・石川県史(第二編)・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等