市民が見つける金沢再発見

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2018-07-19 22:09:33

小立野から香林坊へ、廣坂(ひろさか)

テーマ:伝説・伝承

【金沢・広坂】

藩政期以前は、廣坂の上、現在の県立美術館のところに神明宮や愛宕寺明王院が有り、今も、崖際には古木が聳え神仏が似合いそうな雰囲気を醸し出しています。また、向かい側に昼でも寒気を感じる芋掘藤吾郎伝説の金城霊澤があり、その辺りは、東山にある金澤山永久寺の創建の地だったそうです。若い頃でも、この辺りは寂しいところで夜一人で歩のが怖くて、夜など香林坊からはバスかタクシーで帰宅していました。

 

 

 (廣坂上)

 

 (廣坂上の石川県立美術館)

 

 (金沢神社の鳥居と金城霊澤)

 

この地は、藩政期、太田長知の邸を経て本多安房守の屋敷に、その隣接地は、今も金澤神社の境内の金城霊澤があり、金澤の地名の由来の「金洗澤」の地で、この辺りを大昔、金澤庄と呼ばれ、近くにあった愛宕寺明王院は山号を金澤山と称したと言われています。

 

金澤庄は、日置謙の加能郷土辞彙によると「加賀の古庄名金澤庄があって、金谷門(今の合同庁舎あたり)から蓮池亭(今の噴水辺り)・学校辺り(今の千歳台・梅林)をしか称したと云われたるとある。しかし文書の上に金澤庄と書いたものは発見しえぬ。」とあるので、金澤庄は、現在の広坂通りから広坂、兼六園金城霊澤辺りと推定されます。)

 

(延宝の金沢図・石川県立図書館蔵)

 

廣坂は、金沢古蹟志によると、“・・・今、坂下を廣坂通といへり。此の坂路幅広なりし故に、廣坂と称す。俗に或は安房殿坂と呼べり。従前此の坂の上に、本多安房守の居邸あり・・・”とあり、国事昌披問答に、世俗安房殿坂と云ふは本名何と申候哉。答云う。元作事坂と唱へ候と見江・・・、

 

 

 (川口門跡・この当りから尻谷坂往来に繫がっていたらしい・・・)

 

変異記に、元禄三年三月十七日新竪町後御徒町より出火、安房守第地の西横、元作事坂へ焼け出とあり。そのかみ此の坂脇なる蓮池と呼べる地に作事所ありたりし故に、坂名に呼びたりしといへり。廣坂の名は、輓近(ばんきん・近頃)よりの事にや。

 

元禄・享保の頃は、元作事坂或は安房殿坂とのみ見江たり。文政以前は、此の坂路より兼六園の地内を通行して、尻谷坂へ出る往来ありしかど、文政三年竹澤御殿建築に付き、同年八月十八日より通行を止められ、此の道路を廃して兼六園内へ取り込みに相成り、夫れより百間堀縁往来に雑人の通行を許されたり。

 

(現在の堂形前)

 

≪廣坂下の堂形≫

堂形は、石川郡の備蓄米の倉庫で、藩政期は、俗に呼び名として堂形あるいは本堂形と呼びました。廣坂下より仙石町へ出る間の惣名で、元禄六年の士帳に、古堂形前あるいは古堂形近所・古堂形裏門近所などと記載され、享保九年の士帳にも、古堂形前とあり、元禄・享保の頃までは古堂形と呼びました。古はこの地に弓道の的場として三十三間堂の形で建てられ、それ以来本堂形と呼ばれたのは、後に兼六坂(尻垂坂)下に河北郡の備蓄米倉庫を新堂形に対する称でした。

 

改作所旧記に載せたる享保三年正月の書付に、古堂形・新堂形と見え、金澤町会所留記宝永二年五月の書付に、本堂形前とあり。この後々には堂形あるいは堂形前と称し、この地辺の町名となり、維新の廃藩置縣の戸籍編成の際、堂形前の称号を廃し、廣坂通と改称します。廣坂の下辺りということから、廣坂通となりました。

 

(堂形跡のしいのき迎賓館≪旧石川県庁≫)

 

P.S

廣坂は、小立野在住の者には、片町や金沢駅に行くには、廣坂、兼六坂(尻垂坂)、兼六園を横断するというのがあり、私は、徒歩では当時無料の兼六園から片町へは真弓坂、武蔵・橋場は桂坂、自転車では何処へ行くのも廣坂、遠くへ行く時は市電で兼六坂(尻垂坂)が定番で、自分でお金を稼ぐようになると、深夜、廣坂経由でよくタクシーを利用したものです。

 

 

 (今の廣坂下)

 

自転車での帰りは、兼六坂より、廣坂で、少し角度(石浦神社前で4度)はあるものの昼は、ほぼ兼六坂の半分(214m)の廣坂で押して上がりました。(今は電動自転車で乗りながら上がります)子どもの頃から押して上がるのが面倒になると、当時、廣坂下にあった広坂警察署の駐輪場に入れ、広坂を歩いて上がるのが定番でした。あるとき警察署の人に「お前か!!駐輪場を使うのは、ワシらが入れんようにナルやないか!!」と怒鳴られ、あまりにも怖くて、とんでもない事にした事に気付き以後は止めましたが、今では、そこに警察署が有りませんが、そこを通ると、時々その情景が思い出されます。

 

 

 (今の廣坂上)

 

私は、すでに働いていた昭和36年の秋でした。第2戸室台風が金沢を襲います。後で知るのですが、その日916日は、瞬間最大風速30.7m/s、暴風雨の始め1720分、暴風雨の終わり1845分、総降水量73.6mm。死者8、傷者80、行方不明5、家全壊143、同流失8、床上浸水1,327、その他被害総額は77億円を上廻ったそうです。

 

(廣坂の中程の本多家側)

 

仕事を終え、バスで香林坊まで辿りつき、洋菓子屋のオリヤンタル前で、小立野行きの市電を待ちますが、電車が来ないどころか、いつもいる電車待ちの人もいない、街外れから来たので、街中の様子がつかめず、軒下でしばらく待ちますが、おぼろげに状況が分かり、やがて街灯も付かず真っ暗になり、怖い廣坂を目指して歩きだしました。

 

 

(廣坂中程)

 

通行人は誰もいなくなり、時には突風で飛ばされそうになりながら、廣坂に着き登ろうとすると、兼六園や反対側の石浦神社の古木が倒れ坂を100m位塞いでいました。まさにジャングル探検でした。よくは見えない中、何度も倒れた木を潜り、乗り越え怖さなどスッ飛んで、ガムシャラに前に進みます。そして暗く寂しい道を歩き家の辿りつきました・・・。当時は怖かったけど、今となっては楽しい思い出です。

 

参考文献:森田柿園著「金沢古蹟志」金沢文化協会、昭和9年発行・日置謙編「加能郷土辞彙」・国本昭二著「四季このごも」橋本確文堂、2004年発行

 

2018-07-14 13:09:02

金沢城公園いもり堀(宮守堀)

テーマ:伝説・伝承

【金沢丸の内】

金沢城の「いもり堀」は、金沢城南西部を囲む外堀で、幅約40m、深さ10m以上、北岸の法面の勾配は約2530度、 南岸の勾配は30度~40度のお堀でしたが、明治40年(1907)に旧陸軍によって埋め立てられ、その後旧陸軍用地として利用され、戦後、県立のテニスコートとして利用されてきました。平成15年(2003)から本格的な文化調査が行われ、平成22年(2010)に水堀が一部復元します。「いもり堀」は、正式には漢字で「宮守堀」と書きますが、復元された後は平仮名で表記されています。

 

 

(復元された「いもり堀」と鯉候櫓台の石垣)

 

この堀は、百間堀(蓮池堀)の南端、車橋門からお花畑・薪丸・玉泉院丸の外に巡らされた水堀で、金谷出丸(今の尾山神社)を巡る惣構の堀と、鼠多門(平成31年(2020)に復元予定)前を通り甚右衛門板門にいたる堀の二つに分かれます。堀は、総構の堀以外では最も長い堀(約600m)でしたが、一部復元する前は、全てが埋め立てられ、テニスコートの他に道路や建物、駐車場になっていました。

 

(今の玉泉院丸庭園)

(2020に復元する明治まで有った鼠多門と橋)

「宮守」と書いて、通常は半分半分の割合で「みやもり」または「やもり」と読むそうですが、金沢では、宮守堀を「いもりぼり」と呼んでいました。水の中に生息する、「いもり」がこの堀にいたらしく、昔の人は“やもり”“いもり”の区別が付かなかったのか?言い間違えたのか?宮守堀と書いていもり堀と呼びましたが、今は平仮名で「いもり堀」と書かれています。また、先に紹介した同じ金沢城を囲む白鳥堀、大手堀、百間堀は、金沢市の外濠公園なのに、この「いもり堀」は、石川県の金沢城公園です。しかし、その経緯についてはよく分かりません。)

 

 

(いもり堀の全長)

 

復元後は、幅は15m、水深約1.5m、長さは約230と本来のお堀よりもかなり縮小された復元になりました。堀に有った建物や駐車場は取り壊されましたが、幹線道路は残されます。しかし、埋まっていた鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)石垣が復元され、平成22年(20104月、103ぶりに堀には、兼六園を通った辰巳用水の水が引き入れられ、藩政期の威容を取り戻しました。

 

(復元されたいもり堀から兼六園と左金沢城の石垣、右しいのき迎賓館)

 

堀と同時に復元された鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)の石垣は、いもり堀の南東の端に築かれた石垣で、絵図によると、堀底からの高さは約14.4あり、堀に向かって突き出した主要部分は、幅長辺23.4m、短辺11.8の規模で、鍵の手に折れ曲がりながら東側の車橋門へ続いていたそうです。

 

 (いもり堀と百間堀周辺図)

 (辰己櫓から百間堀と車橋門辺り)

 

明治40年(1907)、いもり堀の埋め立てと同時に上部が撤去され、地上からいったん姿を消しましたが、平成10年(1998)度から実施された発掘により、残存高9.6m分が確認され、発掘された石垣は、寛文4年(1664)の修築時のもので、ツル・ノミ等の工具で形を整えた石材(角閃石安山岩・通称戸室石)が整然と積み上げられており、江戸時代後期の加賀藩の石垣技術者、後藤彦三郎は「城内随一の石垣」と賞賛したといいます。

 

 

 (鯉候櫓の解説)

 

なお、名称の由来については、はっきりしたことはわかっていません。また石垣上の建物としては塀が知られるのみで、櫓は建っていなかったと考えられます。 創建は元和(16151624)ないし寛永(16241644)頃 で、修築 正保元年(1644)、寛文4年(1664)だと伝えられています。

 

P.S

私の小学校時代、「いもり堀」は既にテニスコートでした。昭和22年(1947)、戦災を免れた金沢で第二回国体が開催され、その時、軍隊の被服庫跡に国体用にテニスコートが作られ、それ以後も県民のテニスコートとして利用されていました。石垣の下に10何面かのコートが連なり、石垣の上の散歩道や県庁の裏の道路からも見え、事務棟のバラックには、ローマ字で書かれた看板があり、今風に云うとおしゃれな雰囲気で、憧れの場所でした。その頃、我が家に下宿していた医大生がよく通っていたので、何回か連れて行かれ、中学校になると軟式テニス部に入り、わざわざ板打ちの練習に行きました。

 

(辰己櫓から鯉候櫓台といもり堀、ここにテニスコートがありました。)

 

中学2年の時、市の大会に前衛で参加し、後衛の転校生が上手で、トントン調子にゾーンの決勝に進み、翌日の新聞に苗字が出たのが私の新聞デビューでした。とはいえ、憧れでテニスを始めたので、練習嫌い、試合では瞬発力が無く、レシーブ以外は、コートにボーと立っているだけ、何にもしないうちに終わってしまい、今となれば後衛の方に負担を掛けた思いしかありません。

 

 

 (テニスコートの跡、石垣の石の展示場)

 

高校でもテニス部で、このコートで練習や大会にも参加しましたが、何も思い出せません。思い出すのは、小学校の同級の女子高生が、小麦色の肌で颯爽と硬式のアンツーカーのコートで練習をしているのを遠くから眺めるだけで、声も掛けられなかった甘酢パイ思い出と石垣の上の散歩道にしゃがみ数人でタバコを吸って、補導員に追っかけられ、私ともう一人が残り補導員に捕まり“名前を聞かれ”逃げた者がいるのにと開き直り名乗らなかった若気の至りだけが思い出されます。

 

 

(現在のいもり堀、石垣前がテニスコート)

 

参考HP

いもり堀|金沢城公園-石川県

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwjPgNPF4J3cAhULWrwKHYanC_wQFggoMAA&url=http%3A%2F%2Fwww.pref.ishikawa.jp%2Fsiro-niwa%2Fkanazawajou%2Fimori_canal%2F&usg=AOvVaw1TStDeGwi-Ky0A9HrhjETm

 

参考資料:金沢城研究調査室発行「金沢城いもり堀」ほか

2018-07-08 17:31:21

金沢城の外濠公園⑥百間堀(蓮池堀)

テーマ:伝説・伝承

金沢・丸の内】

百間堀は、石川門の前に架かる石川橋の袂の看板には、以下のように書かれています。

 

(百間堀の石川門と沈床園)

 

     百間堀(ひゃくけんぼり)Hyakukenbori

ここから見える金沢城と兼六園の間は、かつて百間堀のあったところです。金沢御堂(かなざわみどう)陥落(かんらく)後、佐久間盛政(さくまもりまさ)の時代(天正811年、15801583)につくられ、前田利家(公)の入城後、その子利長(公)により改修されたと言われています。小立野台と金沢城とを分断する、防衛上重要な水堀で、長さ約270m、幅約68.4m、水深約2.4mあり、その大きさから百間堀の呼び名がついたようです。明治4344年(19101911)の市電(街鉄)道路工事により、現在のような姿となりました。

 

  (百間堀の桜)

 

  (百間堀の新緑)

 

 なお、別名蓮池堀とも呼ばれ、その由来については、もと蓮が群生する沼地であったためとも、金沢御堂(一向一揆)の時代、極楽浄土に見立てた地名の名残とも言われています。 百間堀の石垣にはたくさんの刻印が見つかりますので、ゆっくり歩いてみるのもいいでしょう。

 

 

 (百間堀の石川橋)

 

≪蓮池の語源≫

蓮池の名は、一向一揆の時代、金沢城の百間堀辺りは蓮池(はすいけ)と呼ばれた池であったことが起源で、金沢城初期は空堀であったが、辰巳用水が開削されたことによって、水が湛えられるようになったといわれています。それゆえ蓮池とは本来は百間堀を指し、百間堀は蓮池堀とも呼ばれることもあった。

 

この堀の蓮池(はすいけ)と蓮池庭との関係について、まず富田景周「蓮池考」のよれば、「蓮池(れんち)は古来よりの名に非ず。御塹の名は蓮池(はすいきけ)有。其辺りにある地なる故後人蓮池(れんち)と音にて唱へ、蓮池と其名を分つよし也」とある。

 

 

(百間堀通り・かつては手前に金沢市の消防本部がありました)

 

これに対して、森田柿園「金澤古蹟志」では、金沢の地名の起源となった清水、すなわち、芋掘り藤五郎が砂金を洗ったという伝承のある金洗沢がこの近くにあり、元は空堀であった蓮池の地名の方が時代が古いとして、次のように主張する。「いにしえ本源寺(一向一揆時代の寺院―引用者注)の時なる蓮池は、金洗沢の続きにて、彼の清水(金洗沢―引用者注)を取りて蓮池となしたるならば、即ち今云う蓮池(レンチ)の地、是往古の蓮池(レンチ)となるべし。蓮池堀は、此の辺りなる壕塹なるより、池堀とは後で呼びたるならんか。富田氏の蓮池考の説は請けがたし」と富田景周の説を退ける。長山直治の「兼六園を読み解く」によると、上記、富田景周と森田柿園では主張が異なるが、この両人とも誤りとあります。(「兼六園を読み解く」P910を引用)

 

 

(兼六園側から百間堀の向こうに石川門)

 

長山直治「兼六園を読み解く」によると、加賀藩5代藩主綱紀公が、延宝6年(1678)頃、今の兼六園の噴水前に「蓮池之上御殿」が造られ、当時の綱紀公の御親翰(藩主の手紙)に「はす池之上屋敷」と書かれているそうです。その理由は、「蓮池之上御殿」は小立野台の先端にあり、蓮池堀一段上で、その頃は「蓮池の高」とか「蓮池の上」と名で呼ばれていたそうです。やがて藩士達の間で「はすいけのうえ」の呼かたが言い難いということから、音読みの「れんちのうえ」と呼ぶようになり、それを聞いた綱紀公は、「れんち」と呼ぶのを嫌い、家臣をたしなめたという逸話が残っています。以後6代吉徳公の時代には「はすいけ」には拘らず、「れんち」という呼び方が定着し、しかも「蓮池之御殿」の「上」の字が省略され、さらに省略され、単に「蓮池(れんち)に呼ばれたそうです。(一部、長山直治の「兼六園を読み解く」の引用。)

 

(その後、11代藩主治脩公(はるなが)は、宝暦の大火(1759)により、蓮池御亭などが焼失し荒廃していた蓮池庭を、安永3年(1774)年に復興し、翠滝(みどりだき)と滝見亭(夕顔亭)を作り、この作庭により瓢池から常盤ケ岡(ときわがおか)あたりに当時の形が残っています。)

 

 

(今の百間堀通り・かっては市電が通っていた)

 

明治43 年(1910 )から百間堀をはじめとして、大手堀を残し、堀は次々と埋立てられ、現在では、百間堀は車道と歩道および遊園地(沈床園)、白鳥堀は裁判所裏の遊歩道路(白鳥路)、宮守堀の跡はテニスコートとなっていたが、現在は金沢城公園の一角として再現されています。

 

現在の百間堀(蓮池堀)は、百間堀の上には並行して走る蓮池門(れんちもん)通り、さらにその上の茶店通りという3つの通りが、金沢を代表するお花見スポットです。特に、百間堀の桜は、石川橋からの眺めや金沢城の丑寅櫓跡や辰巳櫓跡からの眺めが素晴しく、花見時には、今も百間堀の沈床園で朝早くから場所取り合戦が始まり、ブルーシートが敷かれ、昼頃には既に宴会が催されています。

 

(百間堀の花見宴会)

 

≪金澤古蹟志の蓮池堀≫

此の掘を今俗に百聞堀と呼べり。蓮池の名は、昔城地に本源寺有りし頃、僅かなる溜池にて、其の比蓮池となりたりし遺構たりと云ひ伝えたり。関屋政春古兵談に云ふ。金澤蓮池の堀は、昔は涸池にて、高石垣の所も切立ての土手也。佐久間玄蕃居住の時、才川の奥日尾、見定という処 玄蕃思の儘に廻り兼ぬる。

 

或時、玄蕃彼城余りて手浅に候間、堀普請を山中の者共に頼み度しといふ。心得申すとて、究竟の者共三百人許来て堀普請をする。然る処奥村河内屋敷の方と本丸の方より取包之、四方よりさしおろして残らず討殺す。骨ごわの者皆討たれて、それより山内治ると云い伝えへたりと。叉云ふ。尾山城は其初小立野の尾崎を堀り断ち、是に築く。其掘切は、今奥村伊豫屋敷と城との間の蓮池たり。高石垣の所も切立の土手也。蓮池より堂形の方へ押回る角に古への清水あり。金銀の雲母浮ぶ。是を金澤と云ふ。其頃は蓮池は涸掘也と云ふ。

 

 

(明治初期の百間堀)

 

有澤武貞朱書に云ふ。辰巳水道出来してより、水かかるなり。とあり。按ずるに、佐久間玄蕃石川郡日尾・見定の邑民をして蓮池掘を掘らしめたるは、天正八年入城以後にて、十一年四月玄蕃滅亡以前の事なるべし。奥村河内屋敷或は伊豫屋敷とあるは、皆後の名称を以て記載せしもの也。

 

 

(元禄以前の奥村伊豫第・今兼六園)

 

三州志の註にも、伊豫第とあるは、後の第地に非ず。今の学校明の地とは、元禄九年まで有りし第を指すたり。といへり。今の学校の地とは、今金澤紳社の地辺也。又今百間堀と称すれど、三州志来因概覧附録に、蓮池濠の長さ百五十間、幅石川門の方三十間也。夫より東へかけ次第に幅狭くなる。といへり。

 

(蓮池門の通りより、車道の百間堀通り)

 

又按ずるに、此の掘の傍なる往来脇の地を古来蓮池と呼べり。往昔蓮池(ハスイケ)の遺構は此の地にて、此の辺りなる塹なるにより蓮池堀と称する歟(や)といふ説あり。但し富田景周の蓮池考には、蓮池の地は古来よりの名に非ず。塹の名に蓮池あり。其辺りにある池なるに故に、後人此の地を蓮池と音にて唱て蓮池堀(ハスイケホリ)と其の名を分つよし也。此の塹は古へ本源寺の頃より空濠也。寛永九年微妙公、辰巳水道を開通せらるゝより水塹となるよし、関屋政春古兵談に記せり。といへり。

 

参考文献::森田平次著「金沢古蹟志第三編」・長山直治著「兼六園を読み解く」発行 桂書房、200612月 「よみがえる金沢城」編集金沢城研究調査室 発行 平成183月 石川県教育委員会ほか

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