市民が見つける金沢再発見

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2019-01-21 08:34:09

作庭記の兼六園-下-①

テーマ:伝説・伝承

【兼六園】

22、立石口伝

《原文》石をたてんハ、先大小石をはこびよせて、立べき石をばかしらをかミにし、ふすべき石をばおもてをうへにして、庭のおもにとりならべて、かれこれがかどをふみあハせ、えうじにしたがひて、ひきよせたつべき也。

石をたてんにハ、まづおも石のかどあるをひとつ立おおせて、次々のいしをバ、その石のこはんにしたがいひて立べき也。

石をたてんに、頭うるハしき石をば、前石にいたるまでうるハしくたつべし。かしらゆがめる石ヲバ、うるハしき面にみせしめ、おほすがたのかたぶかんことは、かへりミるべからず。

又岸より水そこへたていれ、また水そこより岸へたてあぐるとこなめの石ハ、おほきにいかめしくつづかまほしけれども、人のちからかなふまじきことなれバ、同色の石のかど思あたらんをえらびあつめて、大なるすがたに立なすべきなり。

石をたてんにハ、先左右の脇右前石を寄立むずるに、思あらぬべき石のかどあるをたてをきて、奥石をばその石の乞にしたがひてたつるなり。

 

 

(千歳台の枕石・斉広公の寝所跡)

 

《訳:石を据えるにはまず大小の石を運んできて、立石になる石の頭を上にし、臥石になる石の頭を上にし、庭の表に重ならないように一つ一つ並べて、大小の石の大きさや、見映え、組み合わせ、釣り合いなどを見ながら、かねてからの構想にしたがって据えてゆくべきです。

石を据えるには、まず主石の見映えある角、形を持った石を一つ据えてから、その主石に対して、大きさ、姿が一定の空間構造をなす上にもっとも当てはまるように、次々の石を据えてゆくべきです。

石を据えるには前石などに至るまで、頭部の形の良い石を、それぞれ安定するように据えるべきで、石の頭がゆがんでいる石は、頭が安定した姿になるように立ててその全体の姿が傾いていても、意に介することはない。

また岸から水底へ立ていれ、また水底から岸へ立ち上がる大磐石は、大きくていかめしく続くことが望ましいが、労力が大変であるから、同じ色で似た襞のある石を選びあつめて繋ぎ合わせて一つ石に見せるようにすべきです。

主石へ対して左右の脇石や前石を組むのに、主石にふさわしいのを据えて、その奥のいわゆる見込みの石(見越石)を先に据えた主石や脇石に対して、大きさ、姿が一定の空間構造をなす上にもっとも当てはまるように据えてゆくべきです。)

 

 

(霞ヶ池の亀頭石)

 

兼六園では

立石は、縦の方向に長く据えた石で、横石は、横の方向に長く使ったものをいい。平石は、 高さのない平ぺったい石をいいます。また、伏石というのは、お椀を地面に伏せたような甲羅形になるものをいいます。他に平天石や斜石があり、 平天石は、平石と違い、石にある程度の高さがあり、なお、かつ石の天端が平らなもの、斜石は、石を斜めに立てて据えたものをいいます。兼六園では、水が豊富なので枯山水の庭園はなく、石が連なる庭は、強いて言えば、山崎山七福神山に見られます。

 

 

(七福神島に七福神の石組)

(山崎山の石組)

 

一昔前までは平泉の文化財といえば中尊寺金色堂でしたが、近年、世界遺産に登録されたこともあり、金色堂にプラスして周辺の毛越寺庭園の知名度も上がっていますが、この庭園は平安時代に造られたもので、その当時の作庭のマニュアル「作庭記」が現代にも伝わっています。兼六園では、江戸時代中期の様式が多く、竹澤御殿時代以後昭和44年(1969に明治百年記念事業として増設された「梅林」「時雨亭」の様式に作庭記小堀遠州好みが窺えます。

 

 

(曲水の石組)

 

作庭記の造型理論は大和絵!!

「作庭記」の著者は藤原道長の孫、即ち関白頼道の子である橘俊綱であるというのが定説です。平安時代の中期、藤原文化の全盛期で、従って内容は、寝殿造り建築に即応した庭園の造り方や当時の造園手法を詳しく記した造園書です。その影響は大きく、平安中期は勿論のこと、末期から鎌倉初期にまで及び、庭園が形成される色々な要因として、当時の社会情勢や生活様式非常に重要であるが、さらに直接的なに影響を与えるのは、その時代に流行する絵画です。当時大きな支配力を持っていた大和絵の造形理論(思想)にかなり忠実で、平安後期の庭園を作庭記流庭園とか大和絵的構成の庭と言われています。

 

作庭記流の特徴は庭石による造形が極めて消極的、女性的で、石組が女性的であるためには石組を受ける地形、すなわち、野筋のすじ(女性の乳房のような形の低い築山)の起伏や池汀の輪郭も当然単純無変化で、作庭記流の要点は以下の通りです。

 

(駕籠石・駕籠のプラットホーム)

(瓢池の亀石)

 

「大和絵」の定義は、時代によって意味・用法が異っている。 平安時代から14世紀前後までは、画題についての概念であり、日本列島における故事・人物・事物・風景を主題とした絵画のことであった。対立概念としての「唐絵」は唐(中国)の故事人物事物に主題をとったものであり、様式技法とは関係がない。 14世紀以降は、絵画様式についての概念になり、平安時代に確立された伝統的絵画様式を大和絵と称するようになった。一方「唐絵」(漢画)は宋以降の中国画の技法に基づく絵画、また日本に輸入された中国画そのものを意味する言葉となった。

 

 

(真弓坂上の石組)

 

① まろやかな曲線で囲まれた大きな池泉が庭の中央を広く閉めている。

② 中島の形は小判型で少しも角ばったところがなく、低い姿勢を示している。

③ ふっくらと盛り上がった野筋がゆるやかな傾斜をしめしている。

④ のどかな傾斜線が、そのままなだらかに池そこへつ

ながって行くので、池岸が直角に切り立ってなく、

池底も急角度に深くならない。

⑤ その最後の条文に「屋の軒」近くに三尺に余れる     を立つる事特に憚るべし。

三年のうちに主変事あるべし。また石を逆さまに立

つと大いに憚るべし」と記しいる。

 

以上のように庭石を据えるに当って、あれも悪いこと

悪いと手も足もとも禁止るのでうかつに布石されない

ことになる。

   

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 他

2019-01-15 13:23:42

作庭記と兼六園-上-⑯

テーマ:伝説・伝承

【兼六園】

20、 

《原文》遣水の石をたつるにハ、底石、水切の石、つめ石、横方、水こしの石あるべし。これらはミな根をふかくいるべきとぞ。

横石は事外ニすぢかへて中ふくらに、面を長くみせしめて、左右のわきより水を落たるが、おもしろき也。ひたおもてにおちたる事もあり。

遣水谷川の様ハ、山ふたつがハざまより、きびしくながれいでたるすがたなるべし。水をちの石は、右のそばへおとしつれバ、又左のそバヘそへておとすべき也。うちゝがへうちゝがへこゝかしこに、水をしろくみすべき也。すこしひろくなりぬるところにハ、すこしたかき中石をゝきて、その左右に横石をあらしめて、中石の左右より水をながすべき也。その横石より水のはやくおつる所にむかへて、水をうけたる石をたてつれバ、白みわたりておもしろし。

 

 

(大和武尊の前から七福神山へ)

 

(訳:遣水の石を立てるには、底石、水切の石、つめ石、横方、水越しの石が有るべきで、これらは皆、根を深く入れるべきです。

横石はことの外、筋交へて中をふっくらに、面を長く見せて、左右の脇より水を落ちるのが、お面白い。しかし面に落ちる事もあり。

遣水は、谷川の様で、山二つの狭間より、厳しく流れる姿を良い。水落ちの石は、右のそばへ落としつれば、また、左の傍ヘ添えて落とす。打ち違え打ち違え、ここかいしこに、水を白く見える。少し広くなるところには、少し高き中石を置き、その左右に横石をあらしめて、中石の左右より水を流すべきで。その横石より水の早く落とす所に向かへて、水を受けたる石を立てれば、白みが行き渡り面白い。)

 

(七福神山の雪見橋)

(亀甲橋の下)

(木橋の上)

 

兼六園では

兼六園の曲水中、亀甲橋下の水の中石(横石)または「徽軫灯籠(ことじとうろう)」付近から噴水の処に入る細流、白龍端はみんな「鑓水谷川のさまは、山二つが狭間より厳しく流れるたる姿なるべし」に相当する処です。

(虹橋の上)

(虹橋したの鑓水口)

(虹橋下の鑓水に架かる石橋)

(虹橋下、谷川様の鑓水)

 

21

《原文》一説云、遣水ハそのミなもと、東北西よりいでたりといふとも、対屋あらばその中をとおして、南庭へながしいだすべし。又二棟の屋のしたをとをして、透渡殿のしたより出て池へいるゝ水、中門の前をとおす、常事也。

又池ハなくて遣水バかりあらば、南庭に野筋ごときをあらせて、それをたよりにて石ヲ立べし。

又山も野筋もなくて、平地に石をたつる、常事也。但池なき所の遣水ハ、事外ニひろくながして、庭のおもてをよくよくうすくなして、水のせゝらぎ流ヲ堂上よりミすべき也。

遣水のほとりの野筋にハ、おほきにはびこる前栽をうふべからず。桔梗、女郎、われもかう、ぎぼうし様のものをうふべし。

又遣水の瀬々にハ、横石の歯ありて、したいやなるををきて、その前にむかへ石ををけバ、そのかうべにかゝる水白みあかりて見べし。

又遣水のひろさは、地形の寛狭により、水の多少によるべし。二尺三尺四尺五尺、これミなもちゐるところ也。家も広大に水も巨多ならば、六七尺にもながすべし。

 

(亀甲橋、木橋の下、月見橋)

 

(訳:一説云、遣水は、その源、東北から西に出でたりと云うが、対屋あらばその中を通して、南庭へ流すべし。又二棟の屋の下を通して、透渡殿の下より出て池へいるる水、中門の前を通すのが常識です。

又池は無くて遣水ばかりあれば、南庭に野筋を造り、それを頼りに石を立てる。また山も野筋も無くて、平地に石を立てるにが常識です。かつ、池なき所の遣水は、事のほか広く流して、庭のおもてをよくよく薄くして、水のせせらぎの流を堂上より見すべきで。

遣水の畔の野筋(なだらかな丘陵)には、多く蔓延る前栽を植えるべからず。桔梗(キキョウ)、女郎(オミナエシ)、吾亦紅(ワレモコウ)祇帽子(ギボウシ)様なものを植えるべし。

 

また、遣水の瀬々には、横石の歯ありて、下屋なるを置きて、その前に向かい石を置けば、

そのかうべにかかる水白みあかりて見べし。

また、鑓水の広さは地形の寛狭により、水の多少によるべし。二尺三尺四尺五尺、これ皆持ちところ也。家も広大に水も巨多ならば、六七尺にも流すべし。)

 

(兼六園の地図に竹澤御殿の建物を書き込む)

(噴水から白龍端への白い鑓水)

(白い黄門橋下の流れ)

 

兼六園では

本項の「庭の面をよくよく薄くして、水のせせらぎの流れを堂上より見えるようする。」とあるのは、千歳台、元竹澤御殿正面、七福神山前を流れる曲水の辺りを現していて、亀甲橋の辺りに曲水は、広く浅く緩やかです。また、「下屋なるを置いて、その前に向え石を置けば、その首にかかる水、白みあかりて見ゆべし」は白龍端の谷底の向へ石を云うのでしょう。それは、白龍端の水は白く見えたからと思われます。

 

(白瀧端下、谷川様の白い流れ)

 

以上「作庭記-上-」完

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行 「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 「武家屋敷寺島蔵人邸跡所蔵品録」財団法人金沢市文化財保存団 平成73月発行

2019-01-10 16:40:09

作庭記と兼六園-上-⑮

テーマ:伝説・伝承

【兼六園】

18

《原文》一、水路の高下をさだめて、水をながしくだすべき事ハ、一尺に三分、一丈に三寸、十文に三尺を下つれバ、水のせゝらぎながるゝこと、とゞこほりなし。但値すゑになりぬれバ、うるハしきところも、上の水にをされてながれくだる也。当時ほりながして水路の高下をみむことありがたくハ、竹をわりて地にのけざまにふせて、水をながして高下をさだむべき也。かやうに沙汰せずして、無左右く屋をたつることは、子細をしらざるなり。水のミなかみ、ことのほかにたかゝらむ所にいたりてハ、沙汰にをよばず。山水たよりをえたる地なるべし。道水ハいづれのかたよりながしいだしても、風流なく、このつまかのつま、この山かの山のきはへも、要事にしたがひて、ほりよせよせおもしろくながしやるべき也。

南庭へ出すやり水、おほくハ透渡殿のしたより出テ西へむかへてながす、常事也。又北対よりいれて二棟の屋のしたをへて透渡殿のしたより出ス水、中門のまへより池へいる〓常事也。

 

(時雨亭の新しい鑓水)

(山崎山下の辰巳用水取り入れ口・曲水(鑓水)の入口)

 

(訳: 一、水路の高下を定めて、水を流し下すことは、一尺に三分、一丈に三寸、十文に三尺を下つれば、水はセセラギを流れは滞こうりがない。しかし流れたの末流は、麗しきところも、上の水に押されて流れくだります。当時、堀を流して水路の高下を見向くことありがたくは、竹をわりて地にのけざまにふせて、水をながして高下を定めつべきで。かような内容は内密にせず、無左右く屋を建てることは、子細をしらざるなり。水の皆上、ことの他に高からむ所にいたりては、沙汰にをよばず。山水にたよりを獲たる地なるべし。道水はいづれのかたより流し出だしても、風流なく、このつまかのつま、この山かの山のきはへも、要事に従がひて、ほりよせよせ面白く流しやるべきです。

南庭へ出すやり水、多くは透渡殿の下より出て西へ向かえて流す、当たり前の事です。又北対よりいれて二棟の屋の下をへて透渡殿の下より出す水、中門の前より池へ入るのが当たり前の事です。)

 

 

(白龍端の上から下の流れ)

 

兼六園では

兼六園の蓮地庭を流れる「白龍端」は、「急勾配で、そのせせらぎの音は、琴の調べに似ている」と云われていますが、その下流には、夕顔亭があり、その夕顔亭の別名は「聴琴亭」と云われたのもこの辺から来ているのでしょう。兼六園の曲水の妙(七福神山より虹橋に至る)は本項に合致していて、曲水より霞ヶ池の入る虹橋の処、此処に石を立ててあります。ここが兼六園の最も特徴的な処であるといえます。

 

(兼六園全史の筆者は、この曲水の辺りと蓬莱島の景色が、当時、竹澤御殿に出仕していた木彫家で早雲流盆砂(盆石)の家元景雲堂友月(武田友月)の盆砂の作品に似ている書かれています。)

 

拙ブログ

マルチな遠所者、武田友月

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(夕顔亭)

 

19

《原文》遣水の石を立る事は、ひたおもてにしげくたてくだす事あるべからす。或透廊のしたより出る所、或山鼻をめぐる所、或池へいるる所、或水のおれかへる所也。この所々に石をひとつたてゝ、その石のこはむほどを、多も少もたつべき也。

 遣水ニ石をたてはじめむ事ハ、先水のおれかへりたわみゆく所也。本よりこの所に石のありけるによりて、水の、えくづさずしてたわミゆけバ、そのすぢかへゆくさきハ、水のつよくあたることなれバ、その水のつよくあたりなむとおぼゆる所に、廻石をたつる也。すゑざまみなこれになずらふべし。自余の所々はた〓わすれざまに、よりくる所々をたつる也。とかく水のまがれる所に、石をおほくたてつれバ、その所にて見るハあしからねども、遠くてミわたせバ、ゆへなく石をとりおきたるやうにみゆる也。ちかくよりてみることはかたし。さしのきてみむに、あしからざるべき様に、立べき也。

 

(七福神山から亀甲橋)

 

(訳:遣水の石を立る事は、ひた面にしげく立て下す事あるべからす。あるは透廊の下より出るところ、あるは山の端を廻るところ、あるは水の折れ返るところと 。この所々に石をひとつ立てて、その石のこはむほどを、多も少もたつべきです。

 遣水に石をたてはじめむ事は、先水の折れ変り、たわみゆく所で。本よりこの所に石のありけるによりて、水の、えくづさずしてたわみゆけば、その筋替えゆく先は、水の強く当たることなれば、その水の強く当たりなむとおぼゆる所に、亦、石をたつる。すえさま、みなこれに習うべし。自余の所々はただ忘れるさまに、よりくる所々を立てる。とかく水の曲がれる所に、石を多く立てつれば、その所にて見るはあしからねども、遠くて見わたせば、ゆへなく石をとりおきたるやうに見ゆる也。近くよりて見ることはかたし。さしのきてみむに、あしからざるべき様に、立べきです。

 

(兼六園虹橋)

(虹橋辺り)

(霞ヶ池の落とし口)

(鑓水沿いの春日灯篭)

 

兼六園では

兼六園全史の筆者は、本項が作庭記中で最も絶賛している箇所です。1口に云うと水の曲がる処(激流)に石を多く立てると、その場所のみは非常によいが、退きて遠方より見ると、ことさらに付け足した様にみえるて悪しきことを戒めたものである。さりとて曲がり角に石を立てるなど云ったのだと云い、この辺りが作庭記編者の心にくいまで上手く作庭の妙を書き表してあると述べています。

曲水より霞ヶ池の入る虹橋の処、此処に石を立ててあります。よって曲水の少し上、杜若の処には石が少ない、これは作庭記の云わんとしている処です。また、霞ヶ池落とし口裏の小滝から翠滝上の至る処が大石が無くて春日灯篭が立っています。白龍端を下る曲がりに至るところには石と草で水面が定かではないが、流れは三芳庵本館に至ります。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行 「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 「武家屋敷寺島蔵人邸跡所蔵品録」財団法人金沢市文化財保存団 平成73月発行

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