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2017-09-19 17:50:56

城普請の名人篠原出羽守一孝

テーマ:伝説・伝承

【金沢城公園】

篠原出羽守は、利家公の遺言にあるように、口が堅く律義者で、しかも末森の戦いでは病気を押して出陣し小田原征伐でも力戦。大坂で利家公が亡くなると棺を守って加賀に帰ったことでも知られ、大坂の冬・夏の両陣では部隊長として活躍するなど、前田利家公の信頼を一身の集めた勇猛な武将であったことは言うまでもありませんが、城づくりにおいても前田家では客将高山右近と並び称せられる築城の名人でした。

 

 (初期の石垣・丑寅櫓)

 

加賀藩最初の通史といわれる「三壷聞書」を要約すると、文禄元年(15922代利長公が初代利家公の命による金沢城の高石垣普請で、東の方が2度も崩れ、なかなかうまく積むことが出来ず、利長公は悩んでいたところ、上方にいた利家公は、家臣の篠原出羽守に石垣の施工方法の詳細を指示なされ、金沢に下った篠原は石垣普請の采配を取ります。これが利長公にとって面白くなかったのか「出羽よ、父上が指示された通りにやるがよい。」と、さっさと越中守山城に帰ってしまいます。

 

 

(東丸の2段積みの石垣)

 

篠原出羽守は、8割まで石垣を築いたところで、少し段を設けて高石垣を完成させます。利長公はこの工法が気にくわず、腹を立て「途中に段のある石垣にするのなら、誰も苦労はしない。我は段を作らず、すっきり上まで積み上げたかったのだ。その方がずっと攻防性に優れ、見た目もあっぱれではないか。しかし、出来栄えはまずまず上々じゃ」と利長公は嫌味を言ったと伝えられています。

 

 

(今の金沢城内図)

 

(利長公が越中守山城に帰ったのは、ふてくされヘソを曲げて帰ったというよりも、金沢城修築と同時に守山城や守山城下町の修築を進めるためだとか、金沢に滞在している間に守山城で家臣たちの小競り合いがあり利長公としては越中の家臣の意思統一が、もっも重要だったためだと言われています。)

 

 

 

 (初期の自然石積み・見本積み鶴丸休憩館前)

 

金沢城の修築は、文禄・慶長の二度にわたる秀吉の朝鮮出兵で名護屋城や朝鮮で造られた倭城の築城と平行して進められ、肥前名護屋・大坂・京と秀吉に随行し、補佐役として陣頭指揮にあたっていた前田利家公が、名護屋城や倭城の高度な石垣技術を金沢城の高石垣に活用、篠原出羽守に指示し修築したと言われています。

 

 

 (石積みの解説)

 

その後、慶長4年(15998月、2代利長公がお国入りなされ、篠原出羽守は越前金津までお出迎えに出、金津で御飯を用意しますが、利長公は食事を取らず直ぐに立たれ、出羽守は面目を失いますが、少しも屈せず、急ぎ金沢に帰り、御落着の御膳を用意します。利長公はご機嫌も直り、快く御膳を召上り、それより利家公の時のように召仕えるようになったそうです。

 

 

(高山右近の西内惣構)

 

また、3代利常公が家督相続以前のことですが、金沢城の河北門の升形を築きますが、篠原出羽守が上方から御使いで帰り、出来上がっていた高山右近の用意した石を見て「この所は、お城の大手にあたるところなので、門の石が小さくてみすぼらしい。」と言い、打ち壊し築き直したことに利常公は「もし家督を御譲られれば、出羽を成敗する。」とが腹を立てますが、いざ家督が譲られると成敗も思いいたらず断ち切れになってしまいます。

 

 (左東内惣構・右東外惣構)

 

[篠原出羽守一孝と高山右近]

こんな話もあります。金沢城の惣構ですが、安土桃山時代や江戸時代初期に城を防御するために造られた堀や土居で、金沢城では二重になっていて、内惣構は慶長4年(1599)に2代藩主利長公が高山右近に、外惣構は慶長15年(1610)に3代藩主利常公が篠原出羽守に造らせています。

 

 

(高山右近像)

 

 

篠原出羽守一孝と高山右近は、互いに金沢城の修築や造成に取り組みます。惣構でも内惣構が右近、外惣構を一孝が担当し共同作業も多かったと思われますが、信義と出しゃばらない性格の右近と、無口で頑固ですが律儀で信義を重んじる一孝は、表立って対立はしていなかったらしいが、個人的な付き合いはさすがになかったものと思われます。

 

 

 (櫓の石垣)

 

大阪の陣を前、慶長19年(1614)幕府の大禁教令「伴天連追放文」の発布で、高山右近に金沢退去命令が下り、長崎までの護送役が篠原出羽守でした。加賀藩が用意した囚人護送用の籠を見て「加賀藩に多大な功績を示した高山右近に対して、無腰でこんな物に乗せるのは言語道断。途中で逃げたり、刺客に襲われた時は、私が責任を取って切腹すれば良いだけだ!!」として、上級武家の輿を用意させ、自分の大小刀を右近に差し渡そうとしたと言われています。

 

さすがに右近も「ご厚意はかたじけないが、殿(利長公)や若殿(利常公)の意に反する。」と大小は辞退したと言われています。本音のところで主義や立場での反目はあった2人はお互いを認めあっていてことがよく分る逸話です。このことからも加賀藩では武士の鏡として篠原出羽守一孝は尊敬と称賛を集めたと言われています。

 

 

 (金沢に残るキリシタン灯篭)

 

篠原出羽守は、利家の妻お松の方の従兄弟の養子で、妻は利家公の姪と前田家一門です。一時は2代利長公3代利常公に煙たがられますが、優秀で律儀な出羽守は、仕えた3代の藩主には信頼が篤く、また、それに応え前田家のために尽します。

 

参考文献 :「金沢古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行。「高山右近」加賀乙彦著、講談社 平成11年発行:ほか

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2017-09-17 09:39:27

出羽町と篠原出羽守一孝

テーマ:伝説・伝承

【出羽町】

出羽町という町名は、藩政初期から元禄の頃まで出羽殿町。以後幕末まで出羽14番町と呼ばれていたようです。一番町(丁)は篠原出羽守一孝の屋敷地(NTT出羽町ビル)で、24番丁(町)は上・中級の武家の邸宅で数10戸の武家屋敷が建っていましたが、廃藩後、追々屋敷が朽ち田畠になったといいます。

 

 (篠原家跡)

 

明治4年(1871)には藩政期、奥村家の下屋敷(家中町)を出羽町5番丁に改め、明治19年(1886)には1・2・3番丁と4番丁の一部と隣の下鷹匠町や欠原町までの5万余坪を軍が買上げ高低差を平均し出羽町練兵場になり、やがて一部が軍の施設になります。民家はありませんが地図には地籍は残っています。

 

 (出羽町練兵場跡)

 

(軍事施設:師団長官舎(現県立美術館別館)第九師団兵器庫(現県立美術館・県立歴史博物館)偕行社(現能楽堂他)官祭招魂社(現石川護国神社)ほかに水道低区配水地(現石引駐車場)など、昭和10年代の地図より)

 

 

 (軍事施設跡)

 

昭和39年(196441日の住居表示の改正により、出羽町は、大通りの旧下石引町も含めて、大方が石引4丁目になり、昭和39年(1964)以前、藩政期本多家の上屋敷のあったところは下本多町と呼ばれ、崖下に広がる藩政期本多家の中屋敷や下屋敷のあったところと同じ本多町(上・中・下)で括られていましたが、昭和39年以降は本多家の上屋敷跡が出羽町に変ります。

 

 (幕末地図の本多家と篠原家)

 

藩政期も篠原家より本多家は格上で、敷地も旧本多家の方が広いのに、本多町ではなくて出羽町なのか疑問も残りますが、苦肉の策か?まずは出羽町の町名が消えず、明治4年から昭和39年と少し違う場所ですが出羽町の名が残りました。現在の出羽町は、出羽守所縁の篠原家の一部邸地跡にNTT出羽町ビルが建ち、隣には石川県立歴史博物館と石川県立美術館と別館の3館があり、民家はありません。

 

 

(篠原家跡)

(本多家跡・真ん中の入口までが本多家)

 

[篠原出羽守一孝]

永禄4年(1561)尾張国に生まれ、幼名虎、後勘六。前田利家公の妻まつの従兄弟篠原弥助長重の養嗣子で、後に利家公の弟佐脇藤八郎の息女を娶ります。16歳の時、越前府中で前田利家公の近侍となり、禄130石を賜り、次いで柳瀬及び末森の役に功がり、天正18年(1590)豊臣秀吉東征で利家公に従い出陣。

 

 

(篠原家の門・現在は彦三緑地の門)

 

天正19年(15916月従五位下肥前守に叙任、後に利長公の肥前守を称するに及び出羽守と改め、文禄4年(15951700石。慶長4年(1599年)、利家が大坂で死去した際には嫡男利長公に充てた遺言で「出羽の事、せがれより我等側に召仕、心持能く片口なる律義者にて、城など預け置候て能き者にて候。その上末森の時分、若年に候得共手前殊の外能く候間、我等姪聟に致し候。関東陣之刻も八王寺にて能く候。」と載せられています。「口が堅く律義者」なので重用するように指示しています。

 

利長公の時代には横山長知や奥村栄明と共に執政として国政を司り、大坂の陣にも参陣し大坂両陣の後15,650に上り、元和2年(1616722日夜に没し享年56歳。

(古い記述には多く篠原を笹原と記載されています。)

 

参考文献 :「金沢古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 など

 

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2017-09-07 20:40:10

本多の森の主!!本多政重②親の七光り

テーマ:伝説・伝承

【出羽町】

本多政重の帰参について加賀藩は拒否するどころか、徳川家との今後の関係悪化を懸念し幕府の意向の従うしかないと思っていたらしく、慶長16年(1611812日、藤堂高虎の斡旋から3ヶ月後に政重に利常公は5万石という破格の家禄を約束します。さすがに政重はその内2万石は辞退し、旧禄の3万石で登用されます。

 

   

  (本多家上屋敷跡)

 

当時、前田家では、徳川ににらまれるような、豊臣縁故の侍が多く召し抱えていたので、家中に何か騒動でも起これば、ひとたまりもなく潰されてしまう恐れから、幕府の意思を背負った政重に、家臣団統制を委託しようと利常公は政重に、「しまりの儀、まかせ入申候」とその任務を執拗に要請します。

 

ところが政重は、利常公の意図に従わず、なかなか家臣団統制の任務を引き受けようとはせず、新参者で若輩の身“御年寄衆なみの御奉公はいよいよ御免”にしてほしいと利常公の要請を蹴飛ばしますが、幕府との仲介については進んでやろうと約束します。

 

 (本多蔵品館パンフより)

 

慶長18年(1613)前田家に幕府が突如利長公の隠居領である越中国新川郡を召し上げると言い出し、政重は前田家の意を察し、江戸や駿府に事態の収拾につとめ奔走、その間、政重の人脈を活かし江戸や駿府へ7度も出向き、前田家は、事なきを得たと伝えられています。この功績により2万石を加増され、政重は、前田家に不動の地位をきづきます。

 

(本多家の言い伝えによると、この功績により本多家に、さらに5万石から10万石への加増の話がありましたが、政重が辞退したため、代わりに「村雨の壺(ルソンの壷)を拝領したという。この壺は別名「五万石の壺」とも呼ばれ、本多家ではとりわけ大切にされ、現在、「加賀本多博物館」で展示されています。)

 

≪参考ブログ≫

加賀本多家の歴史・名品-加賀本多博物館

http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=6&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwiN94Wn-5LWAhXHfrwKHeT_DDEQFgh2MAU&url=http%3A%2F%2Fhonda-museum.jp%2Fhistory-gallery%2F&usg=AFQjCNFG1J1LN2w21Ve0w46UQwb8KX8B5Q

 

慶長19年(1614)大坂の陣を前に、前田家からの使者として、江戸や駿府へおもむいた政重が、家康や秀忠、そして、父や兄と何度も会談をし、前田家に対する徳川の信頼を勝ち取っています。

 

 

(加賀本多博物館入口)

 

政重は、大坂の冬陣では前田家の先鋒として従軍しますが、真田幸村(信繁)に真田丸に誘い込まれた末に敗れ、幸村(信繁)は後世に名を残します。この敗戦の後に兄本多正純の命を受け、真田信尹(徳川家康旗本・幸村の叔父)と連携して幸村を水面下で調略に当たったと言いわれていますから、なかなか、侮れない人だったようです。

 

(政重が、真田幸村に提示した条件は「信濃一国」と言う破格のものであったと言われています。)

 

慶長20年(1615)閏63、従五位下安房守に叙任され、翌元和元年( 1616) 家康死去、父本多正信も死去します。元和5年 (1619)には、 二男政久を人質として江戸に差し出します。

 

 

 (本多家上屋敷跡・現石川県立歴史博物館)

 

元和8年(1622)には、宇都宮155千石の兄正純は「日光釣天井事件」で失脚では、一歩間違えれば悲運の底に転落のところ、幕府から一ヶ月後「いまで同様、前田家のもとで奉公にはげめ」と書状が届きます。兄の罪は問わないというもので、当時、罪は一類に及ぶという連座、縁座を免れ、政重は大きな七光りを失う事となりますが、これ以降は、幕府に対する交渉の術もなくなってしまった事になりますが、この頃には、政重は、もう、どっぷり前田家の人となり、政重本人の人格によって受けた篤い信頼は、もはや、父や兄の七光りを使う必要もなかったものと思われます。

 

(かって仕えた主君は、大谷吉継は関ヶ原で果て、宇喜多秀家は流罪、福島正則は改易となり、養子先の直江家は断絶。さらに、権勢を誇った本多の総領家さえ断絶する中で政重の家系は、前田家の八家として末永く存続します。)

 

 (本多家上屋敷図)

 

正保4年(16473月にようやく致仕し、4男政長に相続。その3ヵ月後、63日政重は病を得、しずかに生涯を閉じます。法号「大夢道中」享年68歳。死因は主君前田利長公と同じ悪性腫瘍であったと言われています。

 

(本多政重の項おわり)

 

参考文献:「嵐のあしおと―近世加越能の群像―」田中喜男編(大野充彦著)株式会社静山社 198212月発行 「高岡法科大学紀要第20号 本多政重家臣団の基礎的考察―その家臣団構成について」本多俊彦ほか

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