加賀藩十一代藩主前田治脩公は元住職! | 市民が見つける金沢再発見

加賀藩十一代藩主前田治脩公は元住職!

【高岡市伏木】
報告が少し遅れてしまいました。あの日6月3日。瑞龍寺さんの後、午後に訪れたのは伏木の勝興寺さんです。金沢の二俣から山伝いの現在、富山県南砺市土山に文明3年(1471)蓮如上人によって創建された土山御坊が起こりだそうです。以後、蓮如上人の次男蓮乗が住職になり、弟4男蓮誓に譲られました。明応3年(1494)に、近くの現在の南砺市高窪に移転しますが火災により焼失します。また、永正14年(1517)に、佐渡にあった順徳天皇の御願寺「殊勝誓願興行寺」を相続し「勝興寺」 となったのだといいます。


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(勝興寺と修復工事中の覆いが掛かる大広間と式台)


(順徳天皇は、鎌倉時代の第84代天皇で、後鳥羽天皇の第三皇子。気性は激しく、後鳥羽上皇から大きな期待をされていましたが、後鳥羽上皇による院政が継続されていて、直接政務が与らないため、天皇は王朝時代の有職故実の研究に傾倒し、幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって、有職故実の解説書「禁秘抄」を著します。また、歌才もあり、藤原俊成女や藤原為家とも親交がありました。父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、承久3年(1221)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇に退き、父上皇以上に鎌倉幕府打倒には積極的で、5月には「承久の乱」を引き起こしたものの倒幕は失敗。乱後の7月、上皇は都を離れて佐渡へ配流となり、在島21年の後、仁治3年(1242)に佐渡で崩御しました。配流後は佐渡院と称されていましたが、建長元年(1249)7月に順徳院と諡されました。)


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(本堂内部)


何方でも知ってる順徳天皇
“百敷や古き軒端のしのぶにも
猶あまりある昔なりけり“
(百人一首より)


その後、「勝興寺」は、一向一揆に乗じて大寺となっていきます。真宗教団は他宗派と違い妻帯が許されていることから、戦国時代にあって、公家や武家との婚姻から、細川、朝倉、武田の嫁入りもありました。やがて力を持つようになり、瑞泉寺と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るいます。


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(本堂)


永正14年(1517)勝興寺の寺号を譲られ本願寺にも認められました。永正16年(1519)に火災により焼失したことで蓮誓の次男実玄が現在の小矢部市末友(砺波郡安養寺村末友)に移り寺号を安養寺御坊勝興寺に改めています。勝興寺は越中国の浄土真宗の中核寺院として寺運も隆盛し寺領は10万石に及び周辺の一向宗門徒の拠り所として大きな影響力を持ちました。



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(修復中の唐門)

天正9年(1581)、五代顕幸の時に石黒成綱に焼き討ちにされます。天正12年(1584)、佐々成政が、現在地の古国府城の土地を越中一向一揆で寄進され、五代顕幸が移ったこの地が今の勝興寺です。佐々成政が富山の役で敗退した後も加賀藩前田家の庇護を受けて城郭寺院として境内が整備されます。


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(境内にある越中国府跡を示す石碑)

(勝興寺のある伏木古国府は、奈良から平安時代に、令制国の国司が政務を執る国庁が置かれた越中の古府跡で、歌人として知られる大伴家持は越中守として天平18年(746)6月に任じられ、8月に着任してから、天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京するまでの5年間、この地に在任しました。)


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(経堂)


江戸時代には加賀藩前田家との関係がますます強くなり、三代利常公の養女つる(家臣神谷長治娘)が嫁いだ時には、鉄砲20丁、槍10本、弓矢20本に米750石と人まで付いた嫁入りだったといいます。


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(本堂前で熱弁の観光ボランティア「比奈の会」のメンバー)


加賀藩前田家六代藩主吉徳公の8男後の十一代藩主治脩(はるなが)公は幼くして前田家を出され、宝暦6年(1756)12歳で勝興寺の住職に就きました。治脩公は順番からいつても、とても藩主になる立場でもなかったのですが、兄たちが相次いで死亡し、十代の重教公の隠居にともない藩主就任を請われて、結局、十一代藩主に就きました。


(治脩公は幼名を時次郎といい若い頃は、大の相撲好きで、境内で相撲大会を開いて村の若者に胸を貸したという言い伝えが残り、藩校明倫堂や経武館を創設した名君の庶民的で村人の親しまれた人間像が、今も語り継がれているそうです。)


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(鼓堂)

十一代藩主治脩(はるなが)公は、藩主就任の条件として、老朽化した勝興寺修復も持ち出したと言われています。藩主になってからは財政難の中、本堂はじめ伽藍全体の整備に精力的に取り組まれています。西本願寺の阿弥陀堂の図面に基づき内陣だけで225畳の大きな本堂は、加賀藩お抱えの何代目かの山上善右衛門が手掛けています。


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(修復中の書院や台所)


「平成の大修復」
勝興寺では、冶脩公のよって再建された国内屈指といわれる本堂などが文化庁の補助をうけ、平成10年(1998)から20年計画で着手され、平成16年(2004)に本堂の修復工事完了し、現在は事業費約38億5千万円(文化庁、富山県、高岡市の助成及び事業主負担金による)で、平成17年(2005)7月から平成30年(2018 )3月完成予定の2期目の修復工事が着手されていました。


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(修復中の大広間や式台)

現在は、覆いの掛かった大広間や式台、御霊屋、御内仏、書院や台所以外の建物や姿が見られる修復工事中の唐門。さらには”勝興寺に伝わる七不思議”が見学できます。


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(”天から降った石”と”実のらずの銀杏”)
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(七不思議の看板)


平成30年(2018)の大修復の終了時には”国宝指定“を目指しているそうです。建築群は当然として、一向一揆の拠点であった歴史、また、戦国大名との繫がり、前田家の保護を受けた歴史、さらには文化財。重文の「洛中洛外図屏風」、書状、古文書、絵画、調度品など美術品を含む多くのお宝が伝わり、修復工事が完成すれば、それら全てを一同に拝観出来る、そんな日か来るのを心待ちにしています。


”平成30年(2018)!!あと6年・・・“何とか体調を整え頑張りマ~ス。


参考資料:伏木の観光ボランティア「比奈の会」の解説・重要文化財「雲竜山勝興寺」ホームページwww.shoukouji.jp/ など