金澤の御能③利長公と諸橋家、利常公と竹田家、波吉家 | 市民が見つける金沢再発見

金澤の御能③利長公と諸橋家、利常公と竹田家、波吉家

【金沢・小松】

関ケ原の戦後慶長6年(1601)に利長公は、江沼・能美2郡拝領の御礼に上洛しますが、その帰路小松の城に4・5日逗留し、もと冨樫抱えの能太夫であった諸橋太夫に演能させて、金沢から一族の者どもを呼び寄せ、又白洲で町人どもにも見物させます。慶長9年1604)8月には戦勝の報賽のため、寺中佐那武明神の能舞台楽屋とを大工清右衛門に新築させ、諸橋太夫を神事能の太夫と定め、諸橋金春の流れを組むもので、この神事能は現在も続く大野湊神社寺中能です。

 

(大野湊神社)

 

大野湊神社の寺中神事能(民俗文化財 無形民俗:民俗芸能)市指定文化財 昭和60年(1985 )5月1日。寺中能の舞台は、慶長9年(1604)利長公の寄進により創建され、寛文5年(1665)には氏子村方が寄進しています。現在の能舞台は明治40年に建てられています。見所に桟敷や外囲いを設けず村人が随意に観賞できたことが特徴とされています。寺中能は加賀における最も古い伝統と地域的特色の濃い神事能として評価されています。なお、大野湊神社は延喜式内社で約1300年の歴史の及ぶと云われていま。)

 

(大野湊神社能舞台/写真金沢市公式HPより)

 

諸橋家:元祖は、能登国鳳至郡諸橋村字前波の鎮守諸橋稲荷神社に在った御能の諸橋大夫(祖は京都より諸橋に来た者)を冨樫氏が野々市に招き御能を奏し、これより諸橋家累世野々市に在って御能を加賀に広め、富樫氏より扶持米を賜りました。冨樫氏滅亡後前田家に召出され金沢に移ります。諸橋家は初め金春流であったが、諸橋喜太夫喜多七太夫の門を出て先代甚吉に養われ貞享3年閏3月前田綱紀公の命に依り宝生大夫に入門し以後宝生流となります。

 

波吉家:元祖は、丹羽長秀の家臣(小姓組、430貫の地を領す)で能美郡矢崎里に居住しました。慶長5年(1600)丹羽家が加賀の地を没収され、小松城を退去した後も波吉家(波寄家)は矢崎里に居住し、法師波寄喜之尉信治と改称、信治は殊に猿楽に長じ、3代藩主利常公に招かれ、浅野川馬場に住居を賜り、のち波吉と名乗り、子孫が相続し十人扶持を賜り、寺中能、神事能(明治まで続く観音院の山王社の神事能)などを勤めました。

 

   (2代藩主前田利長公)

 

拙ブロブ

宝生紫雪先生と浅野川稲荷神社

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梅田甚三久(能登屋甚三郎)と尚伯の湯

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謡が空からる町➀

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謡が空からる町③今

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大阪冬陣に臨んだ利光(後の利常公)は帰国途中、京都に滞在し下間少進と御能を催しいいます。「大阪冬陣日記」には、

慶長20年(1615)正月27日のの宮・しゅんねい・三井寺、下間少進にて能も御座候、京に御逗留被成候、同28日 将軍さまぜぜまで御出被成候、同29日 筑前様(利常公)、少進へ御振廻能御座候。しゅうねん・うとう・道成寺・清経とあり。

「三壺記」によると

28膳所へ入御被成、下間少進法印御振舞御能仰付。老松・清経・野々宮・道成寺・春栄・うとう御見物。

利常公は、寛永5年(1628)に金春の分家の竹田権兵衛安信400石を与えて召し抱えます。

知行目録

一、 二百石  加州石川郡 鹿島村

一、 二百石  同 郡   石立村

  合四百石

  右除山川竹木、全可知行之状如件

     寛永五年(1629)二月十日

 

竹田権兵衛安信は、金沢・犀川で勧進帳を催した七郎氏勝の3男で、幼名は作蔵といい、早く父に死別して祖父禅曲安照の教えをうけたが、元和7年(1621)祖父歿後、兄重勝のもとにある時、26歳で利常公に抱えられています。

 

    (3代藩主前田利常公)

 

竹田家:金春座には、禅竹以前から大蔵大夫をはじめ、宮王大夫、春日大夫などの傍流があり、金春安照の三男氏紀が名跡を継いだ大蔵大夫以外は、江戸時代以前に絶えます。分家の竹田家安照(400石)から孫の安信(300石)以後も明治まで加賀前田家に仕えます。本家は、明治維新時の大夫74世広成はその手腕を発揮して混乱期に対処し、明治14年(1881)上京、同じく熊本から上京した桜間伴馬とともに金春流の健在を示しました。

 

寛永6年(1629)4月26日に、将軍家光が利常公の本郷の邸に臨んでいます。「徳川実記」によると、

御茶奉り響し進らせて猿楽あり。舞台に要脚500貫をつみ、猿楽太夫唐織纏頭すとあり、「寛永御成之記」には、当日の能組をのせています。翁立八番観世・金春・喜多の諸太夫に交じって竹田権兵衛安信が鵺(ぬえ)を勤めています。

(大野湊神社・絵馬より)

 

寛永9年(1632)の御成之記録に於いても、能太夫は同様で、竹田権兵衛は花月を舞っているが、まだ宝生の名は出ていない。寛永10年(1633)12月に、家光の養女大姫が前田光高公の輿入れの祝賀能には、

四座立替わり御能過ぎて、役者共に御広間に而御小袖二つ宛御前様より被下候也と、竹園雑記にあり、

竹田権兵衛は京在住のまゝ江戸の藩邸や加賀に往復して勤めています。

 

寛文元年(1661)綱紀公入国の祝儀について「政隣記」に、

御入国御祝儀之御能被仰付、太夫は今春権兵衛、其外役者附等略之。閏8月18日人持・物頭、19日御小姓・御馬廻・定番・射手・異風等見物云々

とあり、山本源右衛門覚書には

小松において竹田権兵衛御能仰付られ、御家中にも御見せ被成候云々

 

竹田権兵衛安信は寛永10年(1633)に68歳で歿し、長子の弥五郎は22歳で歿し、男子5人が尽く早世したので、本家金春氏勝の末子平右衛門安忠の子である平四郎安村(後に広冨)を養子とし、綱紀公は旧知の内から200石を扶持したが、延宝3年(1675)3月に100石を加増し、以来幕末まで300石を知行し、加賀藩御手役者の筆頭でした。3代目の権兵衛広貞も養子で、妻は広貞の女で、彼は関白近衛家などにも出入し、能の故実に通じ、「歌舞名物同異抄」「徳華問答鈔」の著述があります。浮世草子の作者井原西鶴が、「世間胸算用」の中に、元禄4年(1691)秋、京都で興行した加賀の金春勧進能の様子を精細に描いています。当時の世相などもうかがえておもしろい。

過ぎし秋京都に於いて、加賀の金春勧進能を仕りけるに、4日の桟敷1軒を銀10枚づつと定めしに、皆借切て明所なくしかも能より前に銀子渡しける。此度大事ある関寺小町するとはいへば、是一番の見物と諸人勇みて鼻笛を吹けるに、鼓に障(さわ)る事有りて、関寺の能組かはりぬ。それさへ木戸口は夜のうちに見る人山のごとし云々

 

とあり、銀10枚は約銀430匁金7両余(現在の価値で1両10万円としても70万円)で、米ならば約10石買える高額の値段です。加賀の金春と呼び習わされた竹田の能の盛名のほどが察知されます。

 

 

つづく

 

参考文献:「文化點描(加賀の今春)」密田良二著(金大教育学部教授)編集者石川郷土史学会 発行者石川県図書館協会 昭和30年7月発行・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』・金沢市公式ホームページ等