宝生紫雪先生と浅野川稲荷神社 | 市民が見つける金沢再発見

宝生紫雪先生と浅野川稲荷神社

【梅の橋→浅野川大橋間】
浅野川稲荷神社の境内に、[宝生紫雪先生終焉之地]という石碑があります。紫雪は、第15代宝生大夫弥五郎友于(ともゆき)。55歳で家督を子石之助に譲り、加賀藩の御手役者波吉宮門の世話で金沢に隠棲し紫雪と号し、当時、天道寺といわれた浅野川稲荷神社に居住し、ここで亡くなりました。墓は、赤門寺と呼ばれている卯辰山山麓寺院群の全性寺にあります。

市民が見つける金沢再発見-紫雪終焉之地

(宝生紫雪先生終焉之地の碑)

言い伝えでは、紫雪と子石之助、後の第十六代九郎知栄との仲は余りよくなく、それで金沢に来たのではないかといわれています。紫雪は65歳のとき、金沢で亡くなりますが、十六代目の九郎は一度も金沢に足を向けず、墓参もしていないというのが、その噂の元のようですが実際のところはよく分かりません。

全性寺:宝生紫雪の墓の他、能楽関係では諸橋家・波吉家や泉鏡花の母方大鼓葛野流中田家のお墓があります。

市民が見つける金沢再発見-全性寺

(全性寺)

宝生友于( ほうしょう ともゆき)
幕末の能役者シテ方。寛政11年(1799)生まれ。父が早世したため、叔父の宝生流14代宝生英勝(ひでかつ)の養子となり、15代を継ぎました。将軍徳川家斉(いえなり)・家慶 (いえよし)の師範を勤め、嘉永元年(1848)江戸外神田で幕府最後で最大の勧進能を興行します。また謡曲正本の再版を刊行しました。
文久3年(1863)7月14日金沢で死去。65歳。通称は弥五郎。

市民が見つける金沢再発見-紫雪の墓

(全性寺の宝生紫雪先生の墓)

波吉家
加賀藩の御手役者の家柄。波吉家の元祖は、丹羽長秀の家臣(小姓組、430貫の地を領す)で能美郡矢崎里に居住しました。慶長5年(1600)丹羽家が加賀の地を没収され、小松城を退去した後も波吉家(波寄家)は矢崎里に居住し、法師波寄喜之尉信治と改称、信治は殊に猿楽に長じていました。3代藩主利常公に招かれ、浅野川馬場に住居を賜り、のち波吉と名乗り、子孫が相続し十人扶持を賜り、寺中能、神事能などを勤めました。

市民が見つける金沢再発見-波吉絵

(浅野川大橋右岸下流、漆喰土塀辺りが波吉家)

加賀藩と宝生流
加賀藩前田家は、早くから能楽を愛好したが、5代藩主綱紀公の時代、将軍徳川綱吉の能数寄に追従する形で、それまでの金春流に加えて宝生流の能を後援するようになりました。
綱紀自身が宝生大夫に弟子入をして能を舞いはじめ、藩がお抱えの金春流竹田権兵衛(三百石)の弟子であった諸橋・波吉両名を宝生流に転流させて自らの能相手とし、また宝生大夫の子息を前田家江戸大夫に任じるなど、加賀宝生の基礎が作られました。
江戸時代諸侯の中でも最大級の能楽後援者が'綱紀以後の加賀前田家でした。
(元禄時代の記録によると、諸橋家二十五人扶持・波吉家十人扶持を拝領)

3代藩主利常公より3000坪を拝領した。
浅野川稲荷神社の創建年月は不詳とされるが、加賀の国司・富樫氏累代の祈願所であったといわれています。長享2年(1488)、石川郡久安村よりの二万堂に遷座し、天正年間(1573~1591)、大鋸町(稲荷橋辺り)に遷座しました。

市民が見つける金沢再発見-稲荷神社

(浅野川稲荷神社)

慶安4年(1651)、三代藩主利常公のとき、今の地を拝領し、真言宗当山派山伏頭・天道寺が奉仕しました。宝暦9年(1759)の大火で、社殿等焼失し、当時境内地3000坪余りあったところ大火後維持困難として、拝領地を若干返地しました。

文政7年(1824)2月社殿を再建し、明治元年(1868)、別当天道寺は復職して神職となり、明治14年(1881)、6月 現社号に改称しました。
戦後、二度の洪水などで社殿の荒廃が進んだが、昭和35年(1960)、有志の力で再建されました。

古くから幼児の守り神とあがめられ、幼児の「夜泣き、夜尿、癇のむし」によく効くといわれていました。