長町①町名の由来は長家の居邸にあらず? | 市民が見つける金沢再発見

長町①町名の由来は長家の居邸にあらず?

【長町・玉川町】

旧藩中は、すべて長町は藩士の邸地で、一番丁より六番丁まで六条あり。旧伝に云う。この町内は、往昔より火災の難なく、宝暦9年(1759)の大火にも難を遁れたり。ゆえに諸士の邸地はなはだ旧家が多く。長氏の旧邸は、能登の旧領地田鶴浜より引き来りたる古館なるのみならず、一番丁岡田氏の長屋は、嘉永6年(18535月造替せしに、元和2年(1616)の棟札出でたる外、慶長・元和・寛永以来の建物存在するもの多しといへり。亀尾記に云う。長町の町名は、その道路直してはなはだ長し。ゆえに長町といへりと。ある説に、この地に古へ山崎長門居す。長町長門町の上略ならんか。山崎氏の支流数人後々まで居住すと。また一説には、長氏の居邸より起りたる町名にて、ちょう町といふべきを、唱へ悪しきゆえになが町と呼べるならんといへり、平次(森田柿園)あんずるに、元禄6年(1693)の士帳に、香林坊下より図書橋の下辺までをすべて長町あるいは本長町と記載し、元禄3年(1690)火災記にも、長町加藤図書近所堀宗叔家より出火すとあり、この時代図書橋の下辺りまでを長町と称し、宗叔町の名なかりしと聞ゆ、さればその路程はなはだ長きにより、長町とは呼びたる事いちじるし。一説なる長門町の略称、あるいはちょう町などの説は取るに足らず。皆後人の臆説なるべし。山崎長門の邸跡は、今伝馬町の裏にすなわち長門町といへる町名あり。また長氏の苗字によりて、町名をなが町と称すべきよしなし

 

森田柿園の「金澤古蹟志」では、長々と書かれていますが、長町の町名の起こりは“町の路程が長いから(約12km)”で“長氏の苗字”はよしなし(たわいもないこと)とあり、他の説も根拠のない臆説だと云っています。

 

(香林坊橋跡)

(香林坊下を流れる西外惣構の堀跡)

(香林坊橋から図書橋まで約1,2km)googleマップより)

 

城下町金沢は、藩政期には人口が非常に多く、しかも全人口の約42武士とその家族でした。それというのも3代目利常公の改作仕法により武士が一定の封土を持たず知行(俸禄)は禄高に応じ藩庁が支給する仕組みから、いわゆる武士をサラリーマン化し城下に屋敷を貰い住むようになり人口が増え、3(江戸・大坂・京都)に次ぐ大都市になりました。そのためか武家屋敷が集積した地区が数箇所もあり、長町はその中でも大きな地域が形成されました。さらに長家村井家では下屋敷(家中町)が隣接しています。長町も含めて武家地はすべて通称で呼ばれ、大身の武家を核に、例えば、長町では加賀八家の長家や村井家の廻りには上・中級武家屋敷が集められていました。以下は私のブログで金沢の武家屋敷群を載せて置きます。

 

(西外惣構の堀)

 

拙ブログ

出羽町と篠原出羽守一孝

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彦三①由来、大火のこと

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古地図めぐり―金沢・高岡町界わい

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(寛文7年の金沢図・石川県立図書館蔵)

(長家の屋敷跡・案内板が見えます)

 

加賀八家の長家の屋敷跡

長家は長九郎左衛門連龍以来、本宅は能登国鹿島郡田鶴浜にあったが、金沢にも居宅を構えていて金沢城三ノ丸石川門内に三輪志摩、横山山城と共に並んでいました。連龍の嫡子好連が藩主利家公が48歳の時、側室在(あり)に産ませた8女福姫に縁組を仰せ付かり、連龍が隠居し如庵と号し、田鶴浜に引篭もり、時々金沢に出勤していたが、慶長16年(16119月、2代目好龍が没したので、弟の連頼が家督を相続し、慶長17年(1612)に城内に居た家臣団がすべて城外に移された頃、一説には連龍が元々隠居屋敷地として賜っていたという長町に邸地に移ります。長町の居館は寛永8年(1631)の“寛永の大火“で罹災した後は、何度の金沢で大火がありますが、およそ200年に渡り火災から免れ明治2年(18696月の版籍奉還を無事に迎えます。

 

(長家居邸・校本金澤市史より)

(長家屋敷跡・現在玉川公園)

(長家の屋敷跡・現在三谷産業株式会社)

(長家の屋敷跡の案内板)

 

明治維新を迎え、加賀藩最後の藩主慶寧公藩知事を任命され、金沢城を国に明け渡したため長家のお屋敷は金澤藩庁舎に差し出し、当主の31(連龍から数えて11代)長成連は裏地に居宅を建て居住します。明治4年(18717月の廃藩置県で金沢藩が金沢県になり加賀一国が管下となり、県庁は管下の中央にあるべだと云う事から、5年(18722に石川郡美川に移し、県名を移転先の郡名から石川県と改めます。長町の金澤藩庁は同年金沢区会所になり、翌6年から9年まで小学校として使われます。県庁が美川に去った金沢の町は、政府の思惑通りか?戸数も人口も激変します。6年(187311年に満たなく県庁が金沢に移転させ広坂下に県庁舎を建てます。

 

旧長邸(明治に入り長町川岸24番地と始めて町名が付く)は明治13年(18801月、前田家の所有となります。さらに2年後の明治15年(188221日、出火により焼失してしまい、焼け残った表門は白山市松任の本誓寺に移します。

 

 

(現在の図書橋辺り・現在堀は暗渠)

 

加藤図書(ずしょ)の屋敷跡と図書橋

3代利常公に仕えた算用場奉行、公事場奉行、作事方総奉行などを歴任した稲葉左近直富の屋敷があったが、左近、ゆえあって自刃した後、その屋敷を代々2000石から1500石を賜った加藤図書の居邸になりました。加藤図書邸の近くに架かる橋があり、その橋を“図書橋”と呼んでいました。なお、昔から住むものは”左近橋“と称したとも云われていたらしい、藩政期には、香林坊橋からこの橋まで約1,2kmを長町といったと金澤古蹟志に書かれています。現在は、この辺りの西外惣構の堀は暗渠のなっていて橋は存在しません。

 

 

(長家屋敷跡・現在玉川図書館)

(長家の敷地図・校本金澤市史より)

 

P.S

前田利家公が2代利長公に残した「遺言」に、長九郎左衛門と高山南坊、世上をもせず、我等一人を守り、律義者に候。少宛茶代をも遣わし、情を懸け置かれ可然存候。とある尊意にても知られけると有り、利家公との人間関係と人柄が窺えます。慶長4年(1599)に利家公の逝去後、徳川家康は、越前敦賀の鷹商武藤庄助といふ者に命じ、長九郎左衛門連龍へ、その方は前田譜代の士でもないのだから、是非この方(家康)に心を通じたならば、能州は一円を与えると自筆の書簡を庄助に持参させたという。九郎左衛門は、この書簡を封のまま持参し、利長公へ指し出し、利長公が大いに喜んだという逸話が残っています。

 

参考文献:「金澤古蹟志8巻」森田柿園著 金沢文化協会ほか